これまでに侃々諤々の言い合いが始まる話題の発端は主にX(旧Twitter)であることが多かったように思いますが、僕の認知するところでは此度の「音大はコードネームを教えない」という根も葉も無い話題が出てきたのはThreadsにおいてであったと思います。しかも音大出身ではないポピュラー系の知名度のあるミュージシャンからであったように見えました。
僕の近くにいる同年代の音大出身者たちも口を揃えて言っている通り、実際には音大のいくつかの科目の中でコードネームが取り扱われます。僕は昭和音楽大学を卒業した身ですが、「鍵盤ソルフェージュ」「即興演奏法」「作曲・編曲法」などの授業でやはりコードネームを学びました。これらの科目は教職課程の必修あるいは推奨という位置付けでだったために僕は履修したのですが、もしかすると僕が履修していない他の科目でも触れているかもしれません。
(ちなみに僕個人は中学時代にチャットモンチーのコピバンをした経験があり、オリジナル編成には無いピアノを無理矢理突っ込むというアレンジの体験を通して、荒療治的にコードネームが読めるようになりました)
全ての音大に関して隅から隅まで調べたわけではないものの、昭和音大以外を卒業した音楽家たちもコードネームを習う機会はあったようですから、「音大はコードネームを教えない」という主張は事実に反するものであると考えてよいでしょう。「その音大出身者がたまたまコードネームを扱う科目を全く履修しなかった」か、もしくは「授業内で扱われていたのに聞いていなかったか習得できなかった」というのが実際でしょう。僕が学んでいたクラスにも、何度教わってもろくに復習せずに理解も実践もできるようにならないまま単位を落としていく学生がちらほら見られたものです。
この反論をXとThreadsの両方で書いたところ、Xでは身近な音楽家たちが賛同してくれた一方でフォロワーが急激に減るという無言の反発が見られ、これがエコーチェンバーかと少しがっかりしたものの、Threadsの方は爆発炎上と言わんばかりの反発の声が相次いだのであまりに疲弊して対応を放棄しました。賛同の意見も無かったわけではないのですが、もう勝手に言っとれ、読めないままでいろ…という気分です。
「自分はクラシック系だし、コードネームが表記される音楽をやるつもりはないので必要無い。もっと他のことを勉強した方がよい」とか「自分はコードネームを読めるが不必要だと思う」といった声も届けられました。「習わなければわからない」という意見もありましたが、先述の通り実際には音大では「習う」ので前提が誤りですし、習っていないのでわからないと自身で思うならばこれから習うなり独習するなり方法はあるはずでしょう。
僕自身のまだまだ浅い経験上でも、満遍なく伴奏業をこなしていれば、コード譜だけ渡されることもそこまで珍しいわけではないと実感します。先日の副次的文化系歌曲祭でも、僕が譜面台に置いていたのはコード譜でした。学校の音楽の教科書などに載っているメロディ譜にもコードネームが表記されていて、それを基に伴奏を適当に作って弾くことになります。ポピュラー系でなくとも、ポピュラー系の要素を採り入れた現代音楽などが作られる時代にもなりましたし、吉松隆の《サイバーバード協奏曲》や水野修孝の合唱組曲《あしたのオデッセウスたち》などにはコードネームが表記されている箇所もあります。
(余談ですが、フリードリヒ・グルダの《序奏とスケルツォ》を弾いた時には和音が数字付き低音で指示されていました。18世紀以前の音楽でなくとも数字付き低音で表記される例があるのだなと驚いたものです)
「必要無い」と判断したのも恐らくそのような音楽に出会す機会が普段の活動上にたまたま無いからという要因が多そうではありますが、今後も同様であると保証できるでしょうか。
コードネームと言っても、基本的な範囲内では殆どクラシックの和音の考え方と大差は無いものと思われます。もちろん発展形はかなり複雑になるでしょうが、普段の音楽の中で「和音」というものを捉えているならば、それをどのように表記するかの差異でしかないでしょう。近代以降のクラシックなどはむしろコードネームの方がその構造を上手く表記できることさえあると感じます。
それこそ「長三和音」「短三和音」「増三和音」「減三和音」の区別自体は特別コードネーム特有のものではなく一般的な楽典の基礎の範囲内ですし、音大入試の時点で出題されるほぼ最低限の知識ではないでしょうか。これらを今は言葉で書きましたが、これらをアルファベットを用いて記号として表記する方法があるというだけの話ではないかと思います。各和音の関係性自体もコードネームではないかもしれませんが必修の和声法でもれなく学ぶはずでして、その表記を変えてアレンジが加わるだけです。
近代音楽を待たずとも、クラシックでは後期リストくらいには既にだいぶ複雑で一見不可解な和音が登場してきます(一般の人々ならさておき、西洋音楽史を必修とするクラシック系の音大出身者にそのことを知らないとは言わせません)。そういった和音を何らかの認識方法によって捉えるということを普段から習慣化して取り組んでいれば、あとはその表記を知るだけで良いのでしょう。
コードネームの学習において、音楽大学側にはその機会が充分に設けられており、それを利用するかしないかが分かれ目になるということは前提として主張しておきたいと思います。
ただし、クラシック系の学生がそれを学ぼうという意欲だけは持ったとしても、それまでのクラシックへの取り組みにおける時点でいくつかの問題点を挙げることもできるとも考えます。
コードネームを扱う際には音名を英語のアルファベットで示します。また音度をローマ数字で示すこともあるでしょう。ところが、現在の多くのクラシック系の学生は音名を固定ドに依存しています。一見表面上の名付けだけの問題のように思われるかもしれませんが、この固定ドは音楽の構造組織よりも楽器(人間の声も含む)の操作機構に強く結びつけられてしまっている現状があります。
まず、音名を「ドレミ…」というシラブルで強固に認識してしまっており、人によっては「ドレミがあるのでアルファベットの音名は要らない」とまで考えています。そのため、いざアルファベットが表記に登場した時、極端な場合にはそのアルファベットが指す音名が何の音であるかがわかっていないのです。それが極端な場合であるにしても、「Aということは(固定ドで言う)ラのことだね」という翻訳が認識の過程に一段階挟まってしまうでしょう。「AをAとしてそのまま受け止められない」ということが既にハードルになってしまうのです。クラシックの歴史上と同じように最初からアルファベットで音名を教えさえすれば解決する話ではあるのですが、残念ながらこの変更は普及していないのが現状です。
また、クラシックの早期の演奏教育が災いして、楽譜から音楽構造ではなく楽器の操作方法のみを読み取って演奏する習慣を付けてしまったために、和音認識を意識せずに身体動作だけで演奏してしまっている人もいるのでしょう。例えばピアノの場合、五線譜が音楽を記録したものではなく、どの指でどの鍵を弾くかを示したものとしか見えなくなっている状態と見ることができます。この認識の程度が酷い場合、もはや自分が弾いている和音がどのような構造をしているかすら認識していない、長三和音か短三和音かすら理解していないということさえあり得ます(見たことがあります)。僕が大学で鍵盤ソルフェージュを習った電子オルガンの先生(本当の専攻は作曲らしい。既に退官)は「ピアノ科の学生がラフマニノフとかをバリバリ弾くくせに何の変哲も無いコード奏の和音の区別がついていないのは一体どういうことなんだ」と授業内で漏らしていましたが、恐らく真相は僕が今書いたことであると思われます。僕自身は何かの曲を弾く時には「この部分のこの和音はこのような構造でこんな響きがする」ということをじっくり意識するようにしていますが、これは何ら特別でもないむしろ普通の姿勢であると思います。
クラシック系の学生や音大出身者の学習意欲の無さが100%の原因というわけではなく、いくつかの習慣が良くない影響を及ぼした結果であるとも考えられるでしょう。
しかしどうしても許されるべきでないと思うのは、コードネームが読めないことを「コードネームを習わない音大のクラシック出身だから」という方便によって正当化するその甘えた姿勢であります。何度でも書きますが、現在の音大ではクラシック系の学生にもコードネームを学ぶ機会は用意されています。当人が履修しなかったか理解できなかっただけの話です。
たまたま機会を逸したということはあるでしょう。しかし、機会を逸したと思うならばこれからでも学べばよいのです。音楽の専門研究機関を卒業した身であるならば、音楽に関してこれから自力で調べたり学んだりする力は習得しているはずです。音楽学士の学位にはその責任も伴うでしょう。
それがどうでしょう。「音楽を専門に学んだ "から" コードネームがわからない」という方便によって、それを開き直る姿勢は、クラシック音楽にも音楽大学にも音楽の学位にも泥を塗るものと言ってよいと思います。その時点で「知らない」ことは仕方ないにしても、知らなかったのでこれから調べます学びますとどうして思えないのかということには危機感を覚えてほしいです。そのような方便を使って逃げる人間がいるから「音大はコードネームを教えない」などという根も葉も無い不名誉な流言が飛んでしまうのです。
「音大に行かなくても音楽家にはなれる」ということは確かに事実ですが、それは音大に行かなくても自力で研究を進め演奏経験を積むことができる人についての事実です。音大に行かなかった武満徹の合唱曲の楽譜を見れば、武満にコードネームの知識が無かったわけがないことは一目瞭然です。研究機関にいたはずの人間が後れを取り、まるで音大が不充分な教育しか行っていないなどと大衆に思われてしまっては、音楽大学という機関の立場自体が危うくなるでしょう。
実際のところ、音大でたった4年間学んだだけで音楽のことが全部わかるなどということはありません。それでも、音大で学んだことを種としてその後の生涯で音楽探求をすることが、我々音楽の学位を持つ人間には求められるのでしょう。知らない・わからないことは次の瞬間には調べて学ばねばなりません。そのような姿勢で臨めるならば、自身のスキルも増える上に他人の役に立つこともできるというものです。
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