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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】政治というよりは生活に関心を持つこと


 日に日に雲行きが怪しいコロナ禍であります。都内は1日の新規感染者が3,000人を超え、周囲の3県ももはや対岸の火事を超えて延焼を始め、遂には緊急事態宣言が発令されました。何度目なのかというどころか、緊急事態宣言が本当に出ているのかさえ、感覚の上では曖昧になってきました。


 一方でオリンピックはその閉じているとされるバブルの中においても新規感染者を出しながら続行されています。当初から基準はガバガバ、管理は杜撰という話を聞いてはいましたが、それが少しずつ露呈する風向きになっています。「オリンピックはパラレルワールド(なので市中には感染を拡げない)」というパワーワードも飛び出しましたけれど、むしろ日本の市中の感染爆発がオリンピックの中に到達するという事態を考えておいた方が良いのではと感じたりもします。


 国の方針や施策が徹底しない中で、現場の人頼みでどうにか乗り切ってきた今までのやり方が『日本モデル』などと呼ばれているそうですが、それはモデルでも何でもないではないかと思います。今や、明確な方針をもって一人一人が協力して感染拡大を食い止めるための "まとまる力" はほぼ消滅したと言ってよいでしょう。コロナ前から社会の分断が度々問題視されてきましたが、残念ながらその分断はコロナ前よりも悪化したように感じられます。


 思想対立・政治対立あたりが今までの人々の間の分断でした。しかし、今や政治と人々の間さえ分断されてしまったように思えてなりません。特定の業種を狙い撃つような、しかも補償の不充分な自粛をここまで強いてきて、潰れてしまったお店が多々あります。その一方で当の政府や行政の関係者が会食やパーティーを繰り返し、さらにはオリンピックが開催されてその関係者内で仕事とお金が回るなどという図は、自分たちに近くない国民をあまりにも外野に置き去ろうとする姿勢であると思います。政治の側からはその裁量で国民を切り落とすことが案外普通にできることを痛感している次第であります。


 

 遂に本格的な流行を始めたδ株は、状況を明らかに悪い方向へ運ぶと思われます。僕は専門家ではありませんが、周囲の状況がこれまでと比べてだいぶおかしいと感じています。既にニュースでも出ていることではありますが、ワクチン接種が2回済んでいる人たちでさえ罹って発症し、周囲に感染を拡げてしまっている話を身近でも聞きます。ワクチンは重症化を防ぐ効果はあっても感染自体を防ぐ効果が減ってしまったという見解は、残念ながらその通りであるかもしれません。


 誰が悪いというよりも、ウィルスが一枚上手なのでしょう。だからと言って「しょうがない」では終わりません。ウィルスが一枚上手なら、こちらもそれに合わせて対応しなければならないわけです。去年の時点で予想ができなかったというのはいくらか仕方無いにしても、ならば早急に手段を考えねばならないのです。


 分科会はロックダウンができるよう法整備を提言したようで、事実改憲などせずとも立法で補償をした上でのロックダウンは可能であるという見解を発信している専門家も少なくはないようです。ただ、この期に及んで政府は消極的なようです。また「諸外国のロックダウンも補償は充分でない」という脅し文句も見られますが、ならば "日本は" 充分に補償すれば良いだけであります。他がダメだから自分もダメでいいなどという発想はよろしくないでしょう。


 

 ここまで及んでなお、現在の日本社会にひっそりと浸透した政治アレルギーはその力を発揮しています。この状況はどうもおかしいと考える人が増え、その不満の声を表明する…そのこと自体を快く思わない人は存在するものです。さすがに今の時点ではデモ(物理)をやると人が接触し、感染防止の観点からよろしくないという理由から、主にネット上の署名などで意思表示が為されているわけですが。


 政治の話というと拒否反応や無関心を示す人は恐らく少なくないでしょう。しかし思うに、その実態は「生活」「暮らし」ではないでしょうか。特に此度のような有事に生活・暮らしがどうなってしまうかということが、普段の政治への関心に懸かってくるのです。別に自分が政治を行うことができる必要は無く、その動向を知って意思を示すことが、結果的に自分たちの生活・暮らしを決定するのであります。


 意思表示をするということは、自分の意思に責任を持つということでもあります。つまりは意思表示しなければ、自分の意思に責任を持たなくてよいので心はそちらの方が気は楽でしょう。しかし、それでは民主主義は成熟しないのであります。責任逃れの参画姿勢にして責任逃れの政治が生まれるのは必定でありましょう。


 生活や暮らしを守る役割を担うのは、元を辿れば国民一人一人のはずなのです。折角選んだ政治が悪手を選んだなら、それを批判するのも国民の責任であります。黙ること、黙らせることは民主主義から最も遠いことでしょう。


 政治に目を向けることは、自らの生活に関心と責任を持つことであります。

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