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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記・音楽理論】音楽の要素の「何故」と「何」を考えること:ベルク《夜》を例に


 音楽家、特にクラシックの演奏家たちが、自分の演奏する曲の楽譜に形式や和音記号を書き込んで「楽曲分析」や「和声分析」などと言っているのを見ることがあります。あるいは演奏会のMCで、楽曲がソナタ形式でできているだの、全音音階を使っているだのということをPRするのを見ることもあります。


 確かに、音組織への意識もなく力ずくで音符を一つ一つ拾ってコマンドを入力するかのような演奏をするよりは、多少は理屈を交えて音楽を捉えられる方がよほど好ましいとは思います。ただ、それをもって音楽の実態や表現に辿り着けるかと言えば、程度は表層に留まるものではないかと思います。


 例えば、和音記号を楽譜に書き込むという作業それ自体は殆ど分析ではないと思います。五線譜を見れば求められる和音は読み取れるわけですから、和音記号一つ一つ自体は五線譜で書かれた情報をローマ数字で書かれた情報に変換しているだけです。


 では、カデンツまで一括りに認識できればよいのかと言えば、確かに安定や緊張といった変化の流れはより浮き彫りになるでしょうが、全ての楽曲の同じカデンツが全く同じように演奏されるわけではないことには簡単に思い至ると思います。一定の傾向は見出だせるかもしれませんが、完全に共通の事象ではないはずです。


 同じ和声進行をいつも同じように演奏するという前提に立ってしまうと、もちろんそんなことはあり得ないわけでして、そのことを根拠に分析不要論が出てくるのも無理はないでしょう。同じ和声進行だろうが、同じ和音だろうが、同じ形式だろうが…それらの要素が同じというだけで音楽がいつも同じように演奏されるわけはないのです。


 

 音楽理論や楽曲分析の方法や必要不要の話はさておきまして(というか勝手にやっとれ)、音楽を構成する要素に向き合う上で重要なことは、ある音楽の要素について「何故そのようなものであるのか」「音楽上で何をもたらしているのか」ということを考えることではないかと思います。



 例として、ベルクの『7つの初期の歌』より《夜》の冒頭を提示しました。調性が稀薄であるというだけでゲンダイオンガクだ~カオスだ~などと騒がれることが多いですが、聴いての通り・楽譜を読んでの通り、この曲の冒頭は全音音階に基づいた音選びをしています。


 しかしその「全音音階に基づいている」ということ自体は楽譜を読んでの通りの客観的事実でしかありません。全音音階を用いる作品なら他にも色々ありますし、「この曲の冒頭は全音音階に基づいています!」というトークは音楽の意図も現象も捉えられていない、だから何?という蘊蓄披露にしかなっていないと思います。


 考えるべき点は、「何故この部分で全音音階を用いたのか」「全音音階はこの音楽の中で何をもたらしているのか」ということでしょう。


 この《夜 Nacht》という歌曲は、夜へ向かってゆく谷の光景から描写されます。雲に覆われ、霧が立ちこめ、水のせせらぎが微かに聴こえてきます。この曖昧で幻想的な情景を描くためには、見通しの明瞭な調性ではなく、全音音階による不明瞭さ・不安定さが望まれたのでしょう。この冒頭1ページ、僅か6小節の間で、《夜》の舞台は見事に確立されるのです。


 全音音階と一口に言ったとしても、このような狙いがあると判断した後であれば演奏表現の方向性も見えてくることでしょう。


 最終的な細部は演奏者それぞれの加減に任されるところですが、音楽の要素が「何故そのようなものであるのか」「音楽上で何をもたらしているのか」を考えることによって、大きな手掛かりを掴むことには繋がると思います。さらにはそこからある程度普遍的な傾向も見えてくることもあるかもしれません。

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