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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【感想】《隅田川》と《カーリュー・リヴァー》:残された者が祈ること


 10月18日、横須賀芸術劇場にて、観世元雅の能《隅田川》とブリテンのオペラ《カーリュー・リヴァー》を連続上演するという尖ったプログラムを聴きました。



 元々は東京オリンピックに合わせて「東西の交流と融合」をテーマに企画したプログラムだったようです。20世紀イギリスの作曲家であるブリテンは1956年に来日しましたが、その時にこの能《隅田川》を聴きました。これにインスピレーションを得て、脚色はしつつも同じ筋書きでオペラ《カーリュー・リヴァー》を書いたのです。なるほど、“日本の能に影響を受けたイギリスの作曲家”という構図はまさに「東西の交流と融合」というテーマに沿うものでしょう。


 ところがご存知の通り、新型コロナウィルスの影響によってオリンピックは延期になったどころか、「東西の交流と融合」を味わっていただきたかったであろう海外からのお客様さえ見込めない状況になりました。残ったのは矢鱈と尖った企画だけ…かと思いきや、実はこのプログラムを上演することに新たな意味が与えられていたと個人的には思っております。


 息子を人買いに攫われて狂った女が息子を探してやってきたものの、渡し守の話を聞くうちにその息子が一年前に亡くなったことが判明し、みんなで念仏を唱えて/聖歌を歌って祈っていると、亡くなった子の魂が浮かび上がった…というストーリー。救済という言葉で言ってしまえばそれらしいようにも思えるところです。


 ところで、弔いというものは一見、死者を送り出すためのものであるように見えて、実際には残された生者たちが心の整理をつけるためのものでもあるように感じます。《隅田川》では念仏、《カーリュー・リヴァー》では聖歌でしたが、宗教それぞれあれど、残された生者たちは死者を想って祈ります。死者はもう蘇らなくとも、生者が想うことによって、生者の心の中で生き続けると思うのです。浮かび上がった息子の亡霊は、狂女にだけ見えたものではありませんでした。祈りを寄せたすべての人々の心の中で息を吹き返すのであります。悲しみを消せはしなくとも、悲しみと付き添って生きてゆくことができるようにすること、これが救済なのではないかと考えます。


 誰もが死ぬことを免れることはできませんが、安らかに朽ちるならまだしも、非情な不運や理不尽に奪われるパターンが降りかかる可能性も排除はできません。新型コロナウィルスだってその一つでありましょうが、最近の現代社会にはそれだけではない要因によって命が断たれている印象も抱きます。残された者たちの心を穏やかに保てというのも限度がある話でしょう。それこそ誰もが両作品に出てきた狂女のように狂ってしまうかもしれないのです。


 きっと人々は昔からこれと同じことを考えていたと思うのです。悲しみで狂ってしまいそうな時、どうすればそこから救われることができるのか、悲しみと付き添って生きていけるのか。その一つの答えが「祈ることを通して死者を想うこと」だったと思うのです。そしてその回答は、脚色や解釈の差はあれど、東洋と西洋、昔と今の双方において、納得のいくものだったのかもしれません。残された者がどうにか救われて生きてゆけるように、観世元雅やブリテンが指針として遺した作品こそが、今回の2作品だったと思ったのでした。


 音楽家が祈るための手段は音楽であります。既に死んでいった人間たちの思いや、彼らが遺した音楽を僕らが “想う” 時、それらの魂はきっと僕らの背後で息を吹き返し、僕らの背中をそっと支えるでしょう。人間が営んできた歴史の最先端に残された僕らとして、いざ祈り、想いましょう。

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