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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【分析メモ】シェーンベルクの十二音による作曲法は「十二音を順序を決めて均等に使用する」ものであるか?①【《5つのピアノ曲》Op.23よりワルツ】

更新日:2023年3月17日


 巷ではいわゆる"十二音技法"について、「十二音を順序を決めて均等に使用する(そのことによって調性を破壊する)」と説明されることが多いようです。


 一口に"十二音音楽"と言いましても、新ヴィーン楽派の中でさえシェーンベルク、ヴェーベルン、ベルクの十二音の運用への意識はそれぞれ異なっていますし、同時期に新ヴィーン楽派にも接近しつつ結局仲違いしたハウアーの"トローペ"という十二音技法は新ヴィーン楽派のそれとはかなり異なるものです。またロシア出身でフランスで活動したオブーホフの十二音技法や、現在のウクライナ・へルソン出身でドイツで活動しつつも作品が1曲しか残っていないゴリシェフの十二音技法も一旦は別で考えておかねばならないでしょう。



 とりあえず…新ヴィーン楽派の十二音による作曲法が「オクターヴ内の12のピッチクラスによる基礎音列を設定し、その反行形(各音の音程関係の上行/下行を反転したもの)、逆行形(各音の継時関係の前後を反転したもの)、反行形の逆行形を導き出し、さらにその12の移高形を用意し、合計48の音列をガイドとして作曲するという方法」であるという説明は確かにその通りでしょう。


 確かに基礎音列を決めたりその変形をわざわざ導き出しているわけですから、その音列の順序は必ず守られ、重複が無いように配慮され、均等に出現して主音が否定され調性が排除されると考えるのも無理はないでしょう。この手法の説明を聴いて「音楽は数学じゃないぞ!」「頭でっかちだ!」「心が無い!」といった反発も出てくるわけです。


 上の傍線部について、シェーンベルクが十二音による作曲法を用いて書き、最初に世に出した作品である《5つのピアノ曲》Op.23の第5曲『ワルツ』の楽譜を読んで検証してみましょう。ちなみに、この曲集の第1曲から第4曲までには十二音による作曲法は用いられていません。



 きちんと基礎音列を聴き手にも捉えられるように書いているとすれば、基礎音列は冒頭右手に出てくる単旋律でしょう。これを元に数字を振ってみると上の図のようになります。あまり数字処理をしてもこのような音楽の譜読みができるようになるというものではないのですが、しかしこのような音楽に対する先入観を砕くためにいくらか寄与するところもあるでしょう。


 まず、この作品には移高形が用いられません。48の音列などと先に書きましたが、一つの曲の中にそんなにたくさんの音列を投入することはほぼ無いと言ってよいと思います。もし多くの音列を同時に投入してしまえば、その統御は非常に難しくなり、作曲者の管理を外れてしまうでしょう。


 冒頭をご覧ください。もし音列の順序を上のように付番すると、右手が[1]から[3]まで弾く間に左手には[6]から[10]までが先行して出現してしまうことになります。移高形を用いずに、しかし右手と同じ音が重複しないように伴奏を付けるとなると、このような恣意的な措置が必要となるのであります。


 音列が声部を跨いでいることにも注目していただきたいです。10~13小節目のメロディの音の順序は[9]-[10]-[12]-[3]-[4]-[8]-[9]-[10]-[2]-[3] となっています。もはやこのメロディを作るために意図的な配分を行っていると考えられます。


 そして5小節目です。その直前まで左手で[1]から[5]まで来ているというのに、5小節目で先に出る音は[9]、それに続いて右手で[6]~[8]の和音が来ます。つまり音列の順序が入れ替わってしまっているのです。これは右手に[8]すなわちD音を持ってくるための操作でしょう。これによって右手にはG♭augの和音が形成されます。



 お気付きでしょうか、この曲では音列からの恣意的な配置によって特定の和音が鳴っているのです。これらを目印ならぬ耳印にすれば、演奏・鑑賞ともにこの音楽を捉えやすくなるのではないでしょうか。つまるところ演奏者はこれらが聴こえるように演奏するというわけですが。


 最後の部分を見てみましょう。冒頭のテーマが回帰するところからです。。



 基本形と逆行形が登場しますが、所々では2つの声部にある音列が特定の音を共有しているのがわかります。106小節目の[1]-[2]や108小節目の[7]-[8]などが該当しますね。


 とうとう最後の小節では音列の音を使い切らずに終わります。つまりは「そのように終わりたかったから」そのようになっているわけですが、もはや「均等に使う」という話ではないことが観察できると思います。その直前にもトレモロで長く持続される印象的な[1]-[2]がある時点で、十二の音の扱いが決して平等でも均等でもないことは見て取れるでしょう。


 この曲だけでも、シェーンベルクの十二音による作曲法は最初から、数列的操作による自動作曲などではなかったと言えるでしょう。従来の主和音や主調という考え方によらずに、しかし"自由な無調"による創作時には失われてしまった構成を取り戻すための試みこそが、十二音による作曲法であるのかもしれません。



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