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【雑記】クラシック音楽が排外主義の標的になる日

執筆者の写真: Satoshi Enomoto
Satoshi Enomoto
2 日前
読了時間: 3分

 先日、武蔵野市民文化会館でのとある声楽とピアノのリサイタルにおいて、企画担当者や演奏者に向かって「ドイツ語は何言っているかわからん!ここは日本だ!」などという野次を入れる観客が現れ、会場は騒然となったと聞きました。


 最終的にはホールから摘み出されたようで、演奏会が妨害されたこと以外の武力行使や刃傷沙汰、深刻なヘイトクライムが起こされなかったことは幸いですが、この事件は、昨今の排外主義に対して警戒しつつも希望的楽観によって脇に片付けていた懸念を思い出させるものでした。


 クラシック音楽はどう足掻いても「外国産のもの」として排外主義の標的から外れ得ないのではないかという懸念です。



 昨今見られる排外主義の思考や行動には、ある程度「日本人は名誉白人である」という感覚も混じっているように感じます。実際に、東南アジア、アラブやアフリカの人々に対しては差別を発露する一方で、欧米圏(特にアメリカ)の人々に対してこれらはすぐに態度を軟化させます。排外主義に共鳴する人々であっても平然と欧米由来のクラシック音楽を演奏していることは見ての通りです。僕個人は違うと思いたいところですが、「クラシック音楽をやるにあたって名誉白人的な意識がミリ程度でも混じっていないか?」と問われたら回答には窮すると思います。


 この「欧米圏の人々に対してだけは態度を軟化させる排外主義」が恐らく現在は多数派であり、そうでない徹底的なパターン、即ち「鎖国」を主張する排外主義はむしろ少数派であるでしょう。SNSでは「経済が没落してでも純日本人だけの日本がいい!」という意見も時々目にしますが、その多くも恐らくは欧米圏だけは拒絶し切らないと思われます。


 ところが、そんな見かけ上の鎖国的排外主義にも本気の人々が紛れていることを承知しています。欧米圏に対してすらも同じように強硬な姿勢を取り、彼らは伴天連追放令を引き合いに出してキリスト教の排斥すらも口にするほどです。


 此度のコンサートの野次は「ドイツ語」に対して飛びました。これはよほどのことです。第二次大戦やかつての日独伊三国同盟への反省を「自虐史観」と呼んで歴史修正したがる右派の一部は「ヒトラーは正しかった」という言説を広めようと躍起となっているわけで、彼らはあくまでもナチス・ドイツは擁護しようとしています。それさえも飛び越えて「ドイツ語」を他所者として攻撃し、その時に発した言葉が「ここは日本だ!」という考えが戻ろうとしている先は、もはや大日本帝国どころではなく安土桃山時代です。



 これらのことを脅威であるとは警戒しつつも、一方でクラシック音楽はなんだかんだで標的にはならないと楽観していた僕の態度には、やはりどこかに名誉白人的な意識が紛れこんでいたのではないかと反省をせねばなりません。


 件のコンサートの入場料がリーズナブルであったために、冗談のような野次を飛ばす観客が入ってしまったという面は確かにあるでしょう。それでいてなお、発した野次が「ここは日本だ!」という、排外主義の演説やSNSで飽きるほど見聞きしてきたお決まりの文言であったことには動揺を隠せません。排外主義はクラシック音楽のコンサートの客席からの野次にまで到達したのです。こちらがどう演奏しても「ここは日本だ!」などという野次が飛ぶことは想定不可能です。


 この事態を軽視して、排外主義に安易に共鳴するようであれば、自分たちのやっている音楽に対して照準が向く日はそう遠くないでしょう。

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© 2018 Satoshi Enomoto

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