「聴音」という言葉が一体どれほど世間に認知されているかはわかりませんが、一応説明しておくと、演奏された音楽を聴き取って楽譜に書き起こすことを指します。
「耳コピ」と言った方がイメージしやすいでしょうか。音楽家を目指す人たちは聴音の訓練を必ず課されるものであり、音楽学校の入試ではほぼ避けて通れない項目の一つです。もちろん音楽学校入学後にもつきまとうものですし、実際に音楽家として活動するようになってからも聴音をしなければならない場面は存在します。僕の経験で言えば、ポップスの編曲を依頼された際に楽譜ではなく音源を渡されたせいでまずは旋律とコード進行の聴音から始めなければならなかった事例が何度かありましたね。
そのような具体的な事例を差し引いても、音楽をやっていくためには、聴いた音楽がどのようなものであるかを捉える能力を持つことは大前提でしょう。聴音を訓練する意義はそこにあると考えられます。
ところで、「聴音をするためには絶対音感がある方が有利」という言説が存在するようです。いやまさかそんな、ブーレーズやクセナキスの音楽を聴音して一音たりとも逃さず楽譜に書けというわけではあるまいし(しかも恐らくそこに特に大きな意味は無いと思われる…)、本当にそんなことを言う指導者が存在するものかと長らく疑っていました。
…これが本当にいるみたいです…そう言われたことがあるという人が合唱団にいました…
このような言説が流布してしまう原因には心当たりがあります。それこそが、聴音の実施方法です。
聴音の課題実施そのものは、演奏される音楽を聴き取って楽譜に書き起こし、解答と照らし合わせて正誤判定をするというだけのものです。ある意味、聴音の実施そのものはどちらかと言えば到達度確認テストのような面が強いのです。
ここにおいては、結果的に正誤判定が正であれば、楽譜に書き起こすやり方は問われません。ということは、絶対音感を使って1音1音別個にでも聴き取ることができてしまえば、正誤判定を突破できてしまう ── つまり、音楽を脈絡として聴き取れなくても、音を聴き当てるテストには正答できるということになっているのです。
難関音大になるほど、この聴音の課題は複雑怪奇なものが出てくる傾向があります。そのテストを突破するための方法として絶対音感が推奨されてきたのでしょう。しかし、聴音訓練の意義は総体としての音楽を捉える能力を鍛えることにあるはずです。テストを完遂するための戦略として「単音ごとに聴き取ればよい」ということになれば、それは本末転倒でしょう。
聴音の課題をひたすらこなすというのは、模試を解くことによって各教科を経験的に勉強しようとするようなものではないかと思いますし、それと同時に、“聴音課題の実施→正誤判定” という作業を繰り返すだけのことはレッスンと呼べるような代物ではないのではないかとも考えています。
聴音はソルフェージュの訓練のうちの一つとして設定され、音楽大学等においても「聴音ソルフェージュ」などという名前で取り組まれていることでしょう。
で、あるならば。
聴音が単なる課題実施→正誤判定という流れの繰り返しに終始するのではなく、ソルフェージュの訓練として機能するように、レッスンの内容を工夫せねばならないと思います。延々と課題を解くのではなく、そのメロディやハーモニーをどのように受け止めれば掴むことができるかを考えることに重点を置き、ソルフェージュとして取り組むのです。
例えば…
まずは、解いた聴音課題を階名唱してみましょう。多声聴音や和声聴音については全てのパートを、です。順次進行と跳躍進行のエネルギーの差があったり、導音が主音に繋がったり、派生音が次の音へ繋がる引力を強めたり、メロディの途中で転調が起こったり、シンコペーションで強拍がずれていたり、バスならではの動きがあったり…といったことを体感として確認できると思います。聴くだけでなく、歌ってみることによって音楽を感じるのです。この時、手で拍子を叩いたり指揮を振りながら歌うとなお良いかもしれません。
また、解いた聴音課題を和声分析してみましょう。これは和声聴音の和音一つ一つの機能や和音記号を楽典的に当てるというだけの話ではありません。どのパートがどのように動くことによって和音を変遷させているかを見抜く練習をするのです。さらに旋律聴音の課題には和声付けを考えてみましょう。単旋律から、そこに相応しい和声を想像するのです。つまりは旋律の中で根幹になっている音を見抜く能力が必要となります。この訓練を積むと、単旋律の聴音を解いた時にもその背後の和音を想像できるようになり、安定感をもって音楽を聴き取ることができるようになるでしょう。
聴音というソルフェージュ科目が、単なる音当てゲームになってしまっては音楽への反映も望めないと思います。ソルフェージュにも楽典にも言えることですが、ソルフェージュや楽典は音楽を捉えるための手段であって目的になってはならない ── 「ソルフェージュのためのソルフェージュ」や「楽典のための楽典」と化すことは避けるべきと考えています。そのための取り組み方として、聴音をただひたすら “課題” をこなすだけのものにするのではなく、楽典の知識やソルフェージュの手法を総動員して「音楽のためのソルフェージュ」の実現を目指すことが重要であり、それを指導していくことこそが、聴音の “レッスン” ではないでしょうか。
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