• Satoshi Enomoto

【ソルフェージュ】絶対音高の認識が音の連関の認識を妨げること:「絶対音感は "無い方がよい"」という言い回しの理由


 「絶対音感は無い方がよい」という言い回しが為されることがあります。この言葉について「あっても無くてもいいだろう」や「絶対音感保持者を悪く言うのか!」といった反応が返ってきてしまうことは多々ありまして、決して絶対音感保持者を貶そうとしているわけではなく、しかし「あってもよい」とそのまま言い切るわけにもいかない理由は説明しておくべきでしょう。冒頭の言葉だけを言うとインパクトはありますが、それによって変な燃え方をした時点で説得力は削がれるものです。喧嘩にしか見えないようなやり取りは外から見ても望ましいものではないでしょう。


(僕は平和主義者である以前に、口喧嘩について本当に弱く、相手に勢いがあるというそれだけで負けるような有り様なので、予め文章を書いて予防線を張っておく意味も込めて書いておきたいと思います。)



 さて、「楽譜を読んで音楽を起こす」または「音楽を聴いてその姿を掴む」というどちらのパターンで考えていただいてもよいのですが、例えばこのように図示される旋律があるとしましょう。



 縦軸に音高、横軸に音楽の進行(=時間)、○で音の存在位置を取りました。しかしこれでは空中に置かれているようなものであって、音楽を掴むには情報が足りないでしょう。ただ、本来は音というものに名前は存在しません。音名や階名といった名前は、人間が音や音楽を認識するために考え出したツールであります。


 これらの音同士の距離、すなわち音程を基準にすることによって音楽の姿を捉える方法が相対音感というものです。そしてそれを表すために西洋音楽で用いられているものが階名です。シラブルはグイド・ダレッツォが書簡で言及した「Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La」に由来し、それが変化を経て「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、ティ」というものになっています。そのような背景もあるので、一般に言う「移動ド」という呼称は「頭の頭痛」のような言い回しになっているのですが、この「ド、レ、ミ…」というシラブルが音名として使われたパターンもあるため、それらを並べた結果が「固定ド」と「移動ド」の共存…ではなく対立と論争になっていくわけですが…(今回はシラブルの話ではないので割愛)


 話を戻しまして、先の図に階名を振ってみましょう。



 このように書いてしまえば、今まさに画面を見ながら図の6音の旋律を歌うことができるでしょう。旋律の形も掴めたと思います。階名で楽譜を読む人はこのまま「ドーレーファーミーラーソ」と歌えばよいでしょうし、これを聴き取る人はその旋律の形やそれを成す各音の音程関係から「ドーレーファーミーラーソ」と認識すればよいのです。どのような音高にこの旋律が存在しているのかは、どこかの1音だけでも音叉などで確かめる必要がありますが。



 例えばミの音高だけでも確認できれば、上のように他の音についても音程関係から導き出すことができます。



 さて、ここから問題となる現象について触れていきます。僕は自分の感覚内では「そんな極端なことが起こるのか?」と思っていたのですが、意外とこのような経験を持っている人は少なくないようです。そしておそらくこの現象は、たとえ絶対音感保持者でなくとも「音高情報をひたすらに追うやり方で音楽をやってきた人」にも出現するものなのではないか、一方で絶対音感保持者でも音同士の連関を認識する訓練を積んだ人は回避できるものなのではないかとも考えています。


 絶対音感とは、音高を記憶している能力のことを指します。その記憶のために固定ドが用いられることが多いために「固定ド=絶対音感」というイメージが定着していますが、「ハニホ」を使おうが「CDE」を使おうが絶対音感自体は習得されます。


 もちろん、歴史上で基準音高が規定されたのは近代のことです。それ以前の音楽においては本当にバラバラだったと言ってもよいでしょう。別に「古楽のピッチは現代の半音下」などとさえ決まってはいなかったわけです。ただ、どうやら昔にも今時のような絶対音感を習得する人は存在したそうで、自身の絶対音感と世間の統一基準が食い違って苦労した話もどこかで読んだ記憶があります。


 そういえば、絶対音感は加齢によって狂うこともあると聞きました。特定の薬の服用によって聴こえてくるる音高が下がるという話は以前から聞いていますが、加齢の場合はどのような聴こえ方になるのでしょうね。


 話を戻しまして。絶対音感の有無を問わず、音高情報にのみ意識を向け、音同士の連関を気にしない人の音楽の捉え方はこのようになります。



 一見すると、こちらの場合でも不自由は無さそうに見えます。ところが、この捉え方で不自由があまり表面化しない人は、グラスの割れた音高さえも当てて見せるような強力な絶対音感保持者に限られると言ってよいでしょう。


 特に絶対音感を持たないのに音高だけに意識を向けて音楽をやってきている人は、上の図で言うと「各音の音高をいちいち縦軸まで延ばしてきて確認する」くらいの捉え方をすることになるわけです。この結果、「G♭, A♭, C♭, B♭, E♭, D♭」という音を並べることはできても、その一連の繋がりを掴むには至っていないのです。


 演奏家たちの間では「1音1音を拾うように認識して曲を読んでいくこと」すなわち「音楽をまとまりとして考えないこと」に対する警鐘を鳴らす人は少なくないように思いますが、音高を追いかけるという認識方法はもはやそのままそれのことなのです。


 これの強制発動こそが、絶対音感保持者や音高情報のみを考えようとする習慣をもった人たちに降りかかる現象であると言えます。音高を取ろうということを優先的に意識してしまい、音同士の連関への意識が途絶してしまうのです。相対音感…音程を捉えていく訓練を行う際にもこれは否応無く発動します。自分に音程を認識させない方向にもっていかれてしまうのです。


 絶対音感が無いどころか楽譜も読めないような人が、階名を通して比較的軽々と調号の多い音楽の視唱や聴音をできるようになるのに対して、絶対音高を拾う形の音楽活動をしてきて楽譜も読めるような人の方がむしろ少なくない苦労を味わう要因はそこにあると考えています。



 相対音感は絶対音感を持たない人のための代替手段として見られている節が多いように思いますが、その二つは字面の割に内容的には対義語ではないと言ってよいでしょう。前者は音同士の連関に対する認識であり、後者は音高に対する認識であります。そして、音高に対する認識の優越が連関に対する認識の途絶に繋がるという現象が起こる事実を考えると、手放しに「絶対音感はあってもよい」という部分をスルーするわけにはいかなくもなるのです。


 とは言いつつも、絶対音感というものは実のところ、定着させようと思えば誰にでも定着させること自体はできます。「幼少期に刷り込む」という単にそれだけの話なのですけれども、特に意図したわけでなく絶対音感が定着したような人もいると思います。


 流石に絶対音感を停止させることは不可能ではないかと思うのですが、音高への認識よりも連関への認識を優越させる訓練を積むことによって、かなりの程度緩和させることはできるようです。その緩和にも時間がかかることは否定できませんし、音高にしがみつく癖はそう簡単に抜けるものではないというのが現実ではあるでしょう。あくまでも心持ちとしては絶対音高の概念を投げ捨てる勢いで訓練してみるくらいで丁度良いくらいかもしれません。大丈夫です、本当に捨て去ることはできませんから。


 インパクトのある言葉で「絶対音感は無い方がよい」と言われている理由は、その強制発動によって音楽の訓練が妨げられてしまうからであることを、僕の経験と視点から書かせていただきました。



 すみません、あとこれだけ書かせてください。


 「絶対音感は周りの音を聴かなくても音が取れるのが長所」という意見をたまに聞きますが、


 周りの音は聴いてください。それも音の連関です。


 あまり相応しい言葉だとも思っていないのですが、一般に言う「不協和音」や「無調」というものは、決してカオスの結果ではなく、やはり音同士の連関によって成立するものです。音の連関はなにも調性音楽に限った話ではないのです。


 僕は絶対音感の長所はそこではないところにあると思っているのですが、上記のようなことを言われる度に「そういうとこだぞ…」と感じていることは書いておきたいと思います。

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