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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽理論】強弱記号が表すもの

 強弱記号。皆様におかれましては、こいつらを義務教育中にお目にかかったはずです。


 義務教育の音楽の授業の中でこれらを覚えた、あるいは覚えることを強いられたことでしょう。

 最もざっくりとした一般認識は以下のようなものだと思います。

・強弱記号とは、音楽における各部分の音量を示したものである。

・“ p(ピアノ)”は「弱く」、“ f(フォルテ)”は「強く」

・“ m(メッツォ)”が付くと意味が弱まる。

 “ mp(メッツォ・ピアノ)”は「やや弱く=p よりは強い」

 “ mf(メッツォ・フォルテ)”は「やや強く=f よりは弱い」

 「メッツォ mezzo」は「半分」の意。

・同じ記号を重ねると意味が強まる。

 “ pp(ピアニッシモ)”は「とても弱く=p より弱い」

 “ ff(フォルティッシモ)”は「とても強く=f より強い」

 「~ィッシモ -issimo」は「とても」「きわめて」の意。

 さらに同じ記号を重ねることもでき、“ppp” や “fff” はより意味が強まる。


 

 ところで、これらの記号が本当に単に音量を指し示すだけの記号であるのかを考えてみたいと思います。


デジタルに捉える場合

 記事の冒頭に挙げた図には、6種類の記号が書かれています。もしもデジタル的な思考でこれらの記号が単に音量を示すものであるとしたら、決定的な音量の段階は6段階しかないことになるのでしょうか。または記号ごとの音量に幅が決められていたとして、「ここまでの音量がmfであり、0.1dBでも大きくなったらそれは f」となるでしょうか。

 そんなことはありません。現実的に、一曲のうちに出現した異なる箇所の f が厳密に同じ音量であるわけがないのです。また、この音量がmp、この音量がmfと絶対的に決められているわけでもないのです。「弱く」「強く」という表現は実のところ、非常に抽象的なものです。


相対的な音量なのか

 では一方で、強弱記号が相対的な音量を示す記号であると考えてみても、それはそれで説明のできないことが出てきます。例えば、一曲の中で「mf」「f」「ff」という3種類の強弱記号が書かれている曲があったとしましょう。それが単に相対的な音量を示すものであるならば、他の記号でも代替が利くのです。つまり「mp」「mf」「f」と書いても相対的な音量関係は変わらないことになりますから、わざわざ「mf」「f」「ff」と表記する理由が消失します。


アンサンブルにおいて

 強弱記号を単なる音量の記号と捉えると、他にも不具合が表れます。アンサンブルと言いつつも、(楽器の)ピアノでわかりやすい例を挙げられるでしょう。

 ピアノは両手で弾く楽器ですが、それによって複数のパートを一人で演奏することができます。例えば大譜表の真ん中に「f」と書いてあったとしましょう。この「f」とは一体何の音量でしょうか。右手ですか、それとも左手ですか? 旋律ですか、それとも伴奏ですか? 両手合わせてですか、だとしたらその構成要素のバランスはどうなりますか?

 「f」が「音量を強く」だとして、それは一体どこの音量を強くなのかという問題になります。右手の旋律が「f」だと言うのなら、左手の伴奏は「f」よりも抑えることになりましょうが、しかし楽譜に「左手はmf」などと書いてあるわけでもない。

 また、楽器ごとに出せる音量は異なります。ヴァイオリンとピアノでそれぞれが「f」だと思う音量で弾けば、ほぼ確実にピアノがヴァイオリンの音を押し潰すでしょう。現実的にはヴァイオリンの音量を基本として演奏するわけでありますが、すると今度はピアノがその音量を抑えて弾くことになります。ヴァイオリンとピアノ両方のパートに「f」が書かれていても、実際にはヴァイオリンは「f」、ピアノは「mf」くらいにそれぞれが感じる音量で弾いていることになるかもしれません。


会場の都合

 演奏は常に同じ会場で行われるものではありません。狭い練習室でやる音楽と、50人収容のサロンでやる音楽と、200人収容のホールでやる音楽と、1000人収容でやる音楽では、実際の音量はかなり異なるものになります。大ホールで遠くのお客さんにド迫力を届ける「ff」を同じようにサロンでぶちかますというのはもはや音楽というよりも音量の暴力として受け取られても仕方ありませんし、練習室で音量を徹底的に絞った「pp」をそのままホールでやったら蚊の鳴くような音になるのは当然のことです。もしかすると、ホールで演奏する「pp」は本人の中ではあまり音量が小さいものとして感じられるものではないかもしれませんよ。


物理的な無茶振り

 チャイコフスキー御大が有名ですが、彼の《交響曲第6番「悲愴」》の第1楽章には、クラリネットが ppp→ pppp → ppppp と落ちていき、それをさらにファゴットが pppppp で受け継ぐ場面があります。クラリネットやファゴットがどんな思いでどんな風にこれをやっているのか僕は知りませんが。ちなみにこの曲は ffff なんかも出てきます。


 また、僕のブログの中でも何度か紹介している悪名高き(褒)アイヴズのピアノ曲《変化するエールとヴァリエーション(耳または聴覚と精神の練習第2番!!!)》には、もうバカとしか表現できない記号が出てきます。これは一体どうしろと。

 さすがに僕でも fffffffffff などという記号はこの作品以外には見たことがありませんし、どうやってピアノを弾いたら fffffffffff などという音楽ができるのかわかりません。そもそも何て読むんですかねこれ。


 ── というように、強弱記号を単に音量としてのみ考えると説明のつかないことが数多く出てきてしまいます。どうやら強弱記号というものは簡潔に「弱い」「強い」だけではなく、別の観点から捉えるとうまく理解できるのではないかと考えられるわけであります。


 

 強弱記号を音量を示す記号としてではなく、表情記号と捉えてみましょう。

 「p」や「f」というのはそれぞれの音楽の表情を示します。そしてそれは一概に定義されるものではありません。一つ「f」と言っても、それは大らかで堂々としたものなのか、それとも苛烈に畳み掛けるものなのか、だとしたら音色は柔らかくあるべきか、それとも硬くあるべきか…それは一つの曲の中でさえ一定したものではなく、その音楽のもつ別の要素(和声や構造、さらには音楽上の筋書きなど)に大きく影響を受けるものです。しかし音楽とは抽象的なものであり、それがどのようなものであるかを言葉によって定義しきれない(言葉に当てはめることができるものばかりではない)ことから、客観的に事実として捉えられるものを考えると、どうしても「f は強く」というだいたい共通する音楽的結果を意味として定義化するしかないのです。

 強弱記号とは表情を考えたときの結果としての意味合いが大きいことになります。力無く発される音と、繊細に撫でるように奏でられる音と、極度の緊張感をもって慎重に鳴らされる音は、どれも結果的には「p」としか書きようがありません。楽譜に「p」とだけ指示された音がそのどれなのか、はたまた別のものなのかは、個人がその知識と想像力を駆使して考えるしかないのです。しかし、その考える過程からこそ豊かな音楽的発想が生まれるのでありまして、むしろ音楽の根幹へ迫る道はそちらにあると言ってもよいでしょう。


 極端な話、伝えるべきは音楽であって音量ではないわけです。「p」と書いてあったから小さい音量で演奏しようというのではなく、「p」と書かれる表情の音楽を実現しようとすれば、仮に音量は小さくなかったとしても「p」の音楽が聴き手に届くのです。また先述のアイヴズにしても、「fffffffffff」という音量の音楽は不可能であったとしても「fffffffffff」という表情の音楽は実現できるのです。

 これこそが音楽の気迫の力、錯覚の力なのであります。それらを行使するためには、教科書に従って音量を遂行しようとするのではなく、音楽はどうなのか、なぜそうなのかを想像する能力を養わねばならないでしょう。

 これは、決して強弱の記号とその(あまりに簡略化されてしまった)意味を暗記するだけで身に付くものではなく、かと言って巷で行われるような言葉遊びにすぎない意味付け(強弱記号を無理矢理に具体的なものやストーリーに結び付けようとする行為)は一見学習らしく見えつつもむしろ音楽とは乖離していく方向のものですから、ひとえに「音楽とはどのようなものなのか」を地味に地道に、想像力を携えて勉強していくことになるのであります。


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