「師匠に言われた辛辣な一言」が話題になりました。どこから出てきた話題かはわかりませんが、師匠と弟子という人間関係が色濃く残る音楽界からは特に色々な叱咤激励の言葉が挙がるだろうと思っていました。僕も "辛辣" ではありながらも今や一つの信念となっている言葉を挙げました。
ところがタグを遡ってみると、ラインナップは叱咤激励というよりは酷評大喜利でした。1:9くらいの比率と言っても過言ではないかもしれません。師弟の人間関係によっては冗談で済むものも無くはないのですが、程度の強すぎる言葉の方が断然多かったのはさすがに考えものでした。
"辛辣" な言葉が出てくるということは、そのままではよろしくないという程度が弱くはないことを意味します。きちんと取り組んでいてなお直らない少しのミスに対しては、そのような言葉を使う必要はありません。
罵倒などは以ての外です。「下手糞!」だの「帰れ!」だの「音楽辞めてしまえ!」だのという暴言に、音楽やその人の取り組みが良くなるための助言は何も含まれていないのです。ただただ傷を与えるだけです。それによって音楽自体に苦い思いを持っている人もそこまで珍しいわけではないと想像します。
僕も師匠とは音楽的な食い違いが無かったわけではありませんし、衝突もありました。その一方でまた、激励や労いの言葉をかけてくださったこともありました。ただ、やはり中でも最も印象に残っていて自分に影響を与えたのは暴言とは異なる "辛辣" な言葉であると感じます。
舞台で弾くことに尻込みしているところに「怖気付く暇があるなら音楽のことを考えなさい」や「舞台で弾くことを嬉しいと思えないでどうするの」、音楽を理屈で考えすぎることに対して「あなたはもっと遊びなさい」…などということを言われましたが、今の自分の信条になったものはこれらの言葉ですね。
音楽家の中には、傍から見たらどう考えても暴言レベルの言葉でさえも燃料として活かしてしまう人がいたりするもので、案外周囲が思うほどのショックを受けていないこともあります。本人がどう思うかですので、むしろ客観的には判断できないところがあるのも事実です。
しかしやはり "どう考えても暴言" というものは存在するものでありまして、それはつまり助言を一切含んでいないものを指します。「下手糞!」という罵倒の中には上手くなるための助言は何もありません。それは暴言です。
そう考えてみると、指摘する側が意図的に "辛辣" に言おうとする必要は無いということに思い至ります。要するには、助言によって理想的な方向へ誘導することができれば音楽は改善されるわけです。わざわざ血を流す必要は無いのです。辛辣な言葉を使わずとも、言われた側にとって辛辣なものとして響けばよいのです。
罵倒の語彙を増やして酷評大喜利などせずに、普通の言葉で丁寧に助言すればよいだけであります。それで指導者の務めは足りています。旧来からの師弟制のような空気も近年は薄れてきていますし、案外ドライな関係性の方が変にキツい言葉を避けられるかもしれません。
他の個人的な理由もあるのですけれども、主に上記の理由から、僕は自分のやっているレッスンでは助言やヒントを与えるやり方に徹しているつもりです。罵倒したところで効果など無く、せっかく音楽を深めたいという人たちを傷つけるだけです。以前『怖れられるのは損かもしれない』という記事を書きましたが、そこにも通じるかもしれません。
助言を与えて助けつつ、新しいことができるようになったり音楽が深まったりしたら一緒に喜ぶくらいがよいのではないかとさえ信じております。それは全く欠点を指摘しないこととは違います。伝え方を早まるなということなのです。
僕にとっての "辛辣な言葉" のイメージが叱咤激励的なものだったので、タグを遡って多くの人が理不尽な言葉を吐きかけられていた時のガッカリ感は予想外のダメージでした。様々な投稿をご覧になって疲弊したという皆様、大丈夫です。僕も同じように思いました。「師匠に言われた "ためになった" 一言」などだったら、もっと平和に気付きがあったでしょうかね…
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