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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽理論・音楽史】"無調" という言葉の意味

更新日:2021年5月27日


 一般に、調性のシステムに基づかずに作られている音楽を "無調(音楽)" と呼びます。最広義には長調 / 短調によらない旋法性の音楽まで含むようですが、大抵の場合は調性を特徴づける音階や和音が機能せず、それぞれのピッチクラスにおいて主音などの区別が希薄な状態を指して言われます。リストの作品に《調性の無いバガテル》(1885) というピアノ曲がありますが、これは従来の調によっていないだけであって、一種の旋法性音楽と見ることができそうです。


 この「無調 atonal, atonality」という言葉、厳密には誰が使い始めたのかは判明していないようですが、おそらく新聞批評から出てきた言葉なのではないかとベルクは発言しています。ところでこの言葉が見られ始めたのは1906年頃からだそうで、シェーンベルクが所謂 "無調" に踏み出したとされる作品である《弦楽四重奏曲第2番》Op.10 (1907~08)、《架空庭園の書》Op.15 (1908~09)、《3つのピアノ曲》Op.11 (1909) などよりも早く「無調」という言葉が存在していたことは面白いでしょう。先述のバガテルは《無調のバガテル》と訳されることも多いですが、リストは "atonal" という言葉は使っていません。


 どうやら、この atonal という言葉は元々「調性が無い」という意味よりもむしろ、「音楽的でない」「非音楽的である」という意味合いで用いられていたようです。調性の希薄な音楽はシェーンベルク以前から存在していたわけでありまして、それに対して困惑したり反感を抱いた聴衆が、理論というよりは感想として作り出した言葉である…というのがベルクやクシェネクの見解であるようです。


 シェーンベルク的には "無調" という言葉を良いものだとは思っていなかったようで、「誤って "無調" と呼ばれているもの」などという回りくどい言い方をしています。きっとこの言葉が「非音楽的である」というニュアンスで用いられている状況を知っていたであろうことを考えても、まずそこに反対するのは理解できます。僕自身も演奏経験や分析から、シェーンベルクの音楽は "無調" というよりは多調の一種だと考えています。シェーンベルク自身は "汎調性 pantonal " という言い方を主張していますが。


Egon Wellesz(1885-1974)

 ところがこの "無調" という言葉を肯定的な意味で使っ(てしまっ)たのが、シェーンベルク門下の作曲家であり音楽学者のヴェレスでした。ヴェレスの作品も魅力的なので、それはそれで聴いてみてほしいのですが、それはさておき彼は「調性における不協和という概念を無効にする」という意味で "無調" と言ったのです。「不協和音の解放」自体は新ウィーン楽派のキーワードでもあります。シェーンベルクの一派の考えでは、不協和音は遠い協和音と捉えられ、不協和音とされる和音は不協和音ではなくなるわけです。


 後にヴェレスは「"無調" という言葉は音楽の機能や構造を説明できていない」と修正し、それを受けたケクランも "無調" 音楽を調性的にグルーピングして分析する方法を考えたりしたわけですが、結局 "無調" という言葉は広まったのでありました。当のシェーンベルクは12音音楽においてさえも、"擬" 和声的進行を考えることを大切だと述べておりまして、実際に曲を練習していてそのような面があることをひしひしと感じている次第です。


 無調とは何ぞやということを細かく書くとなるとブログ記事の分量では書き尽くせません。実は今回の記事で書きたかったのはこの程度のサワリなのです。理論的なことが理解できていたわけでもなく、ただ「非音楽的だ!」と感じたというところから出てきた "無調" という言葉が、いつの間にやら市民権を獲得してしまった上に、今や「音響の耳馴れなさから非音楽的だと感じている人」、「字面の通り、調性は無いと思っている人」、さらには「グルーピングによって多調の一種だと捉えている人」などに分かれるという混沌が進んでいて、単に面白いなぁと思う次第なのであります。


 少なくとも僕の場合、調性システムの作用が稀薄な音楽だからといって「非音楽的」だとは思っていないのですが、さて、じっくり聴いてみるといかがでしょうか。

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