僕は本業は演奏家として活動しているつもりです。指導者であったり作曲家であったりすることもありますが、既存の作品を演奏する人間でいる比重が大きいということは言えるでしょう。
さて、その演奏という行為は、楽譜に書かれたそのままの計画を音楽として遂行するという単なる再現行為ではなく、演奏者の創意が問われる二次創作行為であると僕は考えております。
よく巷に言われるのは「必要な情報は楽譜に全て書かれている」という言葉です。作曲家が書いた音楽の忠実なしもべであるという信仰の告白のつもりであるかもしれません。なるほど、様々な校訂の手が加わっている楽譜を嫌悪し、それらを削ぎ落とすことが誠意であるという発想も存在するわけであります。
ところが、「楽譜に書かれたそのままを何の手も加えずに演奏すること」が本当に「作曲者の意図した音楽を再現すること」になるのかということについては、一度立ち止まって考える必要があるのではないかと思います。楽譜はあくまでも音楽をどうにか目に見える形に記録しようと試みたものです。この記録方法はとてもシステマティックであるがゆえに世界中に広まりましたが、システマティックであるがゆえに音楽を近似的に記録してしまう面を持っているのです。
作曲者が音楽の細かいニュアンスを書かなかったのではなく、書けなかった(書きようが無かった)ということは充分に起こりうることであると思います。僕の所感ではありますが、楽譜という記録媒体を通した段階で、作曲者が想定した音楽と重なることはもうできないということさえあり得るのではないでしょうか。
「この演奏が "正しい"」という評価は基本的に下し得ないということを意味します。もちろんそれは楽譜に書かれた音符の音高や音価比が正しいという次元の話ではありません。例えば古い鍵盤作品においてペダルを踏むという行為自体について正しい/正しくないという判断を表面的に下すことが不毛であるという見方もできるでしょうか。
人それぞれに信じるものはあると思いますが、僕自身はベートーヴェンの作品を弾く時に「自分はベートーヴェンの音楽を正しく表現しているのだ」などとは微塵も思っていませんし、最初から "正しさ" を目指してもいません。そんなことを書くと不誠実であると言われるかもしれませんが。
恐らく、僕がやろうとしているのは、まっさらな楽譜そのままを再生するのではなく、自分の手で校訂を加えるということです。もちろん勝手なことをやるということとは違うのですけれども。作曲者が書いた作品(楽譜)は原作としての題材であり、そこに自分の視点から見た注釈を加え、そこから発展させて表現を創る…という工程を踏んでいると言えると思います。
原作の中に自身の考える注釈を加えることが、演奏者に求められる創作行為であると、僕は考えます。その注釈が時として、原作のストーリーを補強する "あったかもしれないサイドストーリー" ほどの存在感を持つことさえあるでしょう。それを僕はむしろ良いことであると思っています。原作を貶める方向に発展させることだけは看過されないという話です。
ぬるいオタクが露呈する比喩で恐縮ですが、クラシックのコンサートなどというものは同人誌即売会と似たような面があると感じておりますし、少なくとも僕自身はだいたいそのような心持ちでやっているつもりです。同じ曲を演奏するコンサートに足を運んだり、同じ曲が収録された音源を数種類も所持したりすることは、言ってしまえば原作が同じ同人誌を何冊も買う、みたいなだけのことです。
売る側が権威付けのためか本当にそう信じてか、「これが原作です!」という宣伝をすることもあるといえばあるのですけれどもね。
程度の差はあるかもしれませんが、作曲者たちは殆どの場合はその音楽を面白いとか、伝えられるものがあるとかいうことを考えて創っているでしょう。義務的に書いた曲であっても、よっぽどのことが無い限りは何かしらの工夫をするものであると(自分の経験的にも)信じております。
ならば演奏者は、それを聴き手に対してより良く届く形で演奏することが大切であるかもしれません。そのために行う表現ならば、楽譜に明記されていない表現を行うことのみならず、たとえ自筆譜に書かれた音を多少変えたり、読み方を変えたりしてしまうことであっても、いくらかは許容されると考えております。
字面をそのまま音読することならば、ひたすら訓練すればできるようになります。しかし、そこから何かを考えたり、さらには自身の手による注釈を書き込んだりなどということをするにあたっては、目の前の物品だけでは材料不足でしょう。楽譜に全部は書かれていないのです。
並べた音を鳴らすだけなら機械の方が優秀です。作品に自分なりの創意を加えることができるのは演奏者が人間であるからです。「原作に忠実に」という姿勢の一見した誠実さは結構ですが、「自分が考えたことを補足します」という姿勢は否定されないどころか、それこそが作品の持つ表現可能性を拡大し、音楽における多様性の柱であるのではないかと考えるところであります。
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