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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

(主観的)初心者感覚

 楽器なんかの学習者で「自分なんてまだまだ初心者ですよ~」なんていう “謙遜(?)” の言い方があるが、これを言う人が自分よりも経験年数が長いと、「じゃあ自分はどうなるんだ! 初心者未満か! ええ!?」と不快な気分になる人はやはりある程度いるようである。確かにその言葉によって自分ごと貶められている気分になるというのは理解できる。

 だが、僕が思うのは「自分なんてまだまだ初心者ですよ~」という言葉は謙遜などではなく、実は本人も本心からそのような表現をしているのではないかということである。僕は自称 “プロのピアニスト” なので自分のことを一般的な意味での “初心者” などとは言わない(大学院まで出ておいてさすがにそれはない)が、自分がまだまだ音楽について「普通の人よりはちょっとわかっているけれどもたかがその程度」と思っているのも事実である。

 

 例えばここに、とある物事Xがあり、その全体の分量を10とする。その10を理解すればXを究めたことになると考えたとしよう。挑戦者は片っ端から理解攻略を試みる。普通に考えれば地道に10を理解すればゴールである。

 しかし、ここでギミックが発動する。とりあえず2くらいを理解したあたりで、実は理解すべき分量は10ではなく20だったらしいという事実を “新発見” することになる。2を理解すれば攻略率は20%かと思いきや、“新発見” によって攻略率は10%だったことが明らかになる。

 これが加速度的に増大していく。5を知った時には全体が100あることに気付き、10を知った時には全体が1,000あることに気付き、20を知った時には全体が10,000あることに気付き、長い時間を費やしてどうにか100を理解したあたりでもうその先がとんでもなく果てしないことがわかる。そう、知れば知るほどに、果てしない全体から比較した「自分がわかっている事」の割合がどんどん減っていくのを感じるのである。

 

 その道を究めようとする人間はそれがわかったとしてもその果てを目指すのをやめない。だからいつまでも「自分は(全てを究めた果てから比べたら)まだほんの塵程度のことしか知らない」ということに向き合い続けることになる…し、それが口に出る人は口に出る(笑)

 物事を究めることはそういうもんだとわかってしまっている人たちは(ふとした拍子に口からこぼれる以外は)いちいちそれを喋ったりしないわけだが、アマチュアでこの感覚に戸惑って「自分はまだまだ “初心者” なのだ」と口に出して言う人がいてもおかしくはないだろう。気に病むことはない、どんなに凄いプロだってそれを感じながら日々研究を続けている。世阿弥は「初心不可忘(初心忘るべからず)」と書いたけれども、道を究めようとする限りは「自分は知らなきゃいけないことがまだまだ沢山ある!」という “初心” に強制的に戻されるものだと思う。ある意味、誰もが “初心” 者なのだ。

 

 で、最初の話に戻るわけだが、「とは言っても経験者が初心者を自称するのは本当に初心者の自分にとって不愉快であることに変わりはねぇ!」という意見は残るだろう。確かにそれは事実である。なので、いちいち自分を “初心者” とか言わなくてもいいのではないか?というのが僕の意見である。どうせみんな「自分がまだまだである」ことを抱えているに違いないのだし、あんまりそれを自称すると予防線を張っているようにも見えてしまうかもしれない。そんな肩書きをわざわざ提示したって自分自身が習得したことに何ら変化は起きないわけで、自分の中でだけ「自分はまだまだだ」と思いながら、こんなことを勉強しているとか、あるいはこういうことを知りたいとか、そういうことを喋った方がよっぽどポジティヴな方向に話が盛り上がるだろう。もしかしたら自分よりも少しだけ多くを知っている “初心” 者が、親切に知恵を貸してくれるかもしれない。

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