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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

“楽譜通り”を超えろ!:モーツァルトとグルダ

 7月のコンサート告知です。


及川音楽事務所サロンコンサート

2019年7月20日(土) 13:40開演(13:30開場)

@松濤サロン

全席自由2,000円


曲目

モーツァルト:幻想曲 ニ短調 K.397

モーツァルト:ロンド ニ長調 K.485

グルダ:序奏とスケルツォ 他


予約・問い合わせ:virtuoso3104@gmail.com またはContactフォームより

 

 さて、今回のプログラムはモーツァルトの《幻想曲》ニ短調 K.397、《ロンド》ニ長調 K.485、そしてグルダの《序奏とスケルツォ》である。

 モーツァルトの《幻想曲》は一般には「未完」とされる謎の多い作品。初版の楽譜では最後が属七の和音のフェルマータで途切れているように見えるために「未完」とされ、その後に別の人物によって加筆されて終止線も引かれ、現在ではこの形で演奏されることが殆どである。しかし、この時代の幻想曲は別のメインとなる楽曲への導入曲の役割を担っていた。そのため、件の属七の和音の箇所は次の曲へ繋げるためのものであると考えることは不可能ではないと思う。というわけで、今回の試みの一つは、モーツァルトの《幻想曲》ニ短調の最後は加筆部分を弾いて終わるのではなく、属七の和音からそのまま《ロンド》ニ長調に突入するというものである。つまり《幻想曲》を単体の作品としてではなく、《ロンド》に先行する導入としての幻想曲として演奏するために、楽譜として書かれた加筆部分を取っ払うことになる。一つの演奏可能性として提示できればいいと思う。

 そしてモーツァルトの後に弾くのはピアニストであるグルダのオリジナル作品《序奏とスケルツォ》。ト短調の序奏にト長調のスケルツォが続く。序奏は伴奏がまさかの数字付き低音で書かれている。和音の指定はあるものの、どのような形で伴奏をするかは演奏者に任せられる。また、この作品はグルダの自作自演も残っており、スケルツォの中間にあるトリオ部分でグルダは即興のパッセージを挿入している。そう、作曲者本人が“譜面通り”には弾いていないのである。この部分には即興演奏を挿入するほうがグルダの意図に沿うであろうと考え、自分も即興を採り入れたいと思う。

 

 なにかと度々上がってくる「楽譜通りに弾く」という話題がある。作曲家がやってほしい音楽は楽譜に書いてある筈だ、だから楽譜に書いてあることを忠実に再現することこそが即ち音楽に忠実であることなのだ、と。

 だが、楽譜は音楽の演奏方法を伝達する手段であって、音楽そのものではない。演奏する人間は「楽譜を音楽にする」という作業を重視しがちだが、その作品を書いた当の作曲家たちは「音楽を楽譜として表記する」という作業をしているわけだ。この工程の時点で、楽譜に書き表せない音楽の情報は楽譜から抜け落ちてしまうのである。五線譜という形の座標の上に書けるのはせいぜい目盛り上にある音の高さと長さ程度であり、本当に単に「楽譜通り弾く」ということはそこまでの意味しか持たない。ポイントは「楽譜表記を忠実に再現しようとする」ということよりも「どんな音楽がそのように楽譜に表記されたのか」を推理しなければならないということである。


 モーツァルトとグルダの音楽性には共通するものがあると思っている(実際にグルダはモーツァルトを敬愛していた)。音楽に現れているその一つは、二人ともが即興演奏の名手であったということだろう。 今回のプログラムで僕がモーツァルトとグルダを繋いだポイントはそこである。確かに楽譜は存在する。しかし、モーツァルトの音楽もグルダの音楽も、まるで即興で生まれたかのように演奏されることを望んでいるように思えるのである。ならば敢えて楽譜には無い即興的な装飾やパッセージを(音楽を損ねないように)加えるという実験を試みようと思う。この試みは来場者の「自分が知っているようなモーツァルトが聴けるはずだ」という予想・期待を必ず裏切る形であり、「良い方向に裏切る」か「悪い方向に裏切るか」の二択しかない。もちろん前者を目指すところではあるが。


 耳馴れた曲を、初めて聴く曲のように思わせたい。記録の復元としてではなく、音楽の再創造として演奏を為したい。そんな目標を最近密かに持っています。ご興味ありましたらぜひご来場ください。

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