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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

“耳馴染み”の盲点

 だいぶ前に聞いた話をふと思い出しました。

 

 最新の研究で、とあるピアノ曲の中の一つのリピートが、実は自筆譜の裏に書かれたリピートが写り込んだだけのものだったという事実が判明。つまりそのリピートはもはや音楽とは関係の無いリピートだったのである。

 しかし、それを聞いたとある大御所ピアニスト氏、「自分は今までずっとそのリピートをするものだと思って弾いてきたし、そのように耳馴染んでいる。だから自分はこれまで通りそのリピートをして弾く」と、まさかの真っ向から反発。研究者たちと一触即発の空気になったのは言うまでもない。

 

 さて、耳馴染みというのは馬鹿にできないものでして、聴き応えを優先して楽譜の指示を無視したり音楽を歪曲したりしたまま、演奏家にも聴衆にも耳馴染んでしまうということは案外起こることなんですね。

 確かに「耳馴染みがある」ということは、ある程度広くそのように演奏され、その演奏を良いと思った演奏家や聴衆がいたわけで、そこに全く魅力が無かったわけではないはずなのです。

 例えば楽譜に記されたテンポ指示よりももっと速く弾いた方が聴き映えが良くなるというようなことはよくある事例です。モーツァルトのトルコ行進曲がやたらめったら速いテンポで弾かれるのは、要するに速く弾いた方が「指がめちゃくちゃ速く動く!」とアピールできるし、その方が演奏が派手になるからというところでしょう。自分も昔バルトークのソナタを弾いた時に「若い人たちはみんなこの曲を速いテンポで弾いてるんだからもっと速く弾きなさい」と言われてそれに従い、他の先生たちに「それ違うと思うよ?」と指摘されたことがありました。結局はそれも「速く弾いた方がテクニックを見せつけることができるし音楽も派手になるから」なんですよね。しかも、そのような演奏の方がコンクールで評価されるという現実もあったりしますし。あの時の演奏はただただ派手なだけで、リズムの重量と躍動を杜撰にしたものだったと反省しています。

 また別の例で、ピアニストを目指す人が必ず一度は勉強するであろう、モーツァルトの F-dur のソナタ K.332 の第1楽章の冒頭なども、あのアーティキュレーションとしての細かいスラーが無視され、フレーズとしての(楽譜に書かれていない)長いスラーで一纏めにされていることが多いと思います。なにせロマン派的な長いスラーは弾いている方も聴いている方も気持ちいいですし、一方でアーティキュレーションを細かく付ける演奏は難度も格段に跳ね上がりますから。

 さらに例を挙げると、そもそもクラシックはテンポの緩急を柔軟につけることが許容されている音楽であるのに、「常に一定のテンポ(インテンポ)で弾くこと」を良しとする考えがかなり浸透している事実もあります。クラシックが今のようにインテンポで演奏されるようになったのは第二次大戦後のことだそうで、いくつか様々な要因が重なってのことだとは思いますが、僕が最近感じたのはポップスの影響でしょうかね。ポップスはビートを貫く音楽なので、テンポの緩急をつけると崩れてしまいます。それと同じ発想をクラシックにも適用している気がしないでもないです。これはごく限定的な要因でしょうけれども。

 

 こういった“耳馴染み”は演奏家にも聴衆にも安心感や爽快感を与えてくれるでしょう。演奏家にとっては勉強の苦労が少なく、聴衆にとっては“耳馴染み”の音楽が聴けてwin-winというやつです。しかしこの発想は、それ以外の表現可能性への意識を閉ざすことにもなりかねず、その音楽が本来もっている魅力を気付かずに切り捨てているという事態も考えられなくはないのです。一般に耳馴染みがない演奏方法や表現でも、それによって曲の魅力を存分に引き出して提示し、聴衆に「こんな演奏聴いたことない! でもこっちの方が面白い!」と思わせることも、演奏家の力の見せ所というものではないかと思います。むしろ「こっちの方が聴衆も耳馴染みあるから!」と安易な爽快感に傾くのは音楽を貶める姿勢であるような気がして、僕はそこを妥協したいとは思いません。

 「その曲の本当の魅力を引き出す表現方法って何?」という思考を止めないようにしたいものです。

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