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【感想】Lutherヒロシ市村『シューベルト:冬の旅』

執筆者の写真: Satoshi EnomotoSatoshi Enomoto

 Lutherヒロシ市村先生のリサイタル『シューベルト:冬の旅』を聴きに行ってきました。伴奏は伊藤那実さん、翻訳・字幕は三輪えり花先生です。


 日頃は有名曲に対しては「またあの曲をやるのか」などと感じてしまって食指の動かない榎本ですが、シューベルトの《冬の旅》のような作品ともなると、むしろこの巨大な作品をどのように演奏するのかが気になるようになります。


 今回は舞台発音(舞台ドイツ語)に加え、超低声用移調譜(低声用より低い移調譜が存在している)を用いるというレアな形態の公演であるとは言え、全曲演奏が4度目であるというLuther先生の表現がどのようなものであるかというところに特に注目をもって聴きに行きました。


 

 前回のリサイタルでは演奏会中のSNS実況を許可するという画期的な取り組みが行われましたが、今回は感想のSNS投稿は演奏時間外にというアナウンスが為されていました。さらにこれまでPDFで電子配布されたプログラムも、今回は紙の冊子となっていました。画面によって聴き手の意識が削がれることを防止する狙いがあったであろうことには、開演前から客席は気付いていたことでしょう。


 曲に関する軽妙なMCも今回は一切無しで、音楽だけを粛々と紡いでいきます。《冬の旅》は親しみの湧く部類の作品ではないはずですし、この長大なストーリーについていく聴き手も労力を費やすことでしょう。しかし、少しでもMCを挟んでしまえば《冬の旅》への集中力・没入感は削がれてしまいます。曲間がattaccaでないとしても、MCを挟んだ方が"わかりやすい"かもしれないにしても、このような作品に限っては最初から最後までMCなど一切入れない方がよいのでしょう。本当は喋りたかったこと(?)はプログラムの後方にも書かれていましたね。


 超低声用という移調譜の使用については、確かに所々に低音域らしい音響が立ち上っていましたが、それによって《冬の旅》の根幹自体が著しく変質するようなことは無く、むしろLuther先生が技術的に表現しやすい音域であるという点が重要であったと思われます。その意味では、超低声用ということ自体による特異性などはあまり感じなかったと言えます。むしろ元々このような低い音域を用いる音楽であったかのような自然さの方が印象に残りました。


 舞台ドイツ語の話の前に、そもそもの言葉の発音が非常に明瞭であるという武器をLuther先生が持っているため、言葉の伝達力に優れた演奏であったことに異論は無いでしょう。その上で舞台ドイツ語の流麗さが際立ったと思われます。一般には声自体の良さが優先的にアピールされがちかもしれませんが、言葉を伝えるという観点の重要性を再認識できる演奏であったと思います。


 演奏表現については、その適切な加減が評価できるものであったと感じます。僕も学生時代に伴奏だけ読んで練習しましたが、《冬の旅》は表現程度の不足のみならず超過も起きやすい作品であると考えております。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはよく言ったものです。


 《冬の旅》は詩においても音楽においても、物語の語り手の感情を強く表出しようと思えばできてしまう作品でしょう。しかし過度の感情描写は聴き手のアンテナを圧倒することはできても、聴き手の心情を惹きつけることは難しいと思われます。


 そのような面から見た今夜の演奏は、適切な表現加減をキープしていたと言えます。不足が無いことは当然として、恐らく経験上の意図をもって表現超過を制御していたように感じ取れました。爆発的なカタルシスなどは不適切な作品でしょうから、この配慮は確実に効果的であったと思います。このことは決して音楽が即物的であるという意味ではなく、描き切らない余白を用意するということであるでしょう。


 Luther先生のこれまでの演奏経験に由来するポイントであるかもしれませんが、今回の演奏は、物語の主人公がリアルタイムで感情を吐露している音楽というよりも、主人公が日記の語り手に徹する音楽であったように感じます。


 例えば音楽に「俺は悲しいんだーーー!」のようなあからさまな感情吐露が入ると、聴き手は「ああ、そうかい、"あなた"は悲しいんだねぇ」と、他人が持っている悲しみを他人のものであるままに受け取ることになります。それは共感性がかなり高い聴き手でもない限りは、聴き手自身の悲しみにはなり得ないでしょう。しかし、心情を淡々と訥々と辿っていくという音楽を実現するならば、物語の語り手の心情を演奏者が追い、それを更に聴き手が追うことができるようになります。物語の語り手の心情を追っている人々の心情が、物語の語り手の心情と同じものになっていくという現象が起きた時に初めて、悲しみは聴き手自身のものとして湧き起こるのでしょう。


 (これが例えばオペラなどになってくると、登場人物の心情は登場人物のものであるままであって、聴き手が同じ心情を得る必要は無くてよいのかもしれません)


 過去にLuther先生が演奏した《冬の旅》を聴いたことが無いので比較などはできませんが、これまでに演奏経験があったからこそ判断できた感触というものもあるのかもしれません。きっと演奏家として一生かけて付き合える作品には間違いないでしょう。理知的に作りすぎず、しかし情に流されない加減は一度や二度の演奏経験では手に入り難いものです。抒情でドロドロになることなく、しかし決してドライではない、調度良く引き締まった音楽でした。


 アンコールはシューベルトの《セレナーデ》。《冬の旅》に続くシューベルト遺作(友人たちが編集)の歌曲集『白鳥の歌』の中では最も知名度も人気も演奏頻度も高いこの歌が、《冬の旅》の後に演奏されることで一つの精神的救いを聴き手に提供する形になりました。


 《冬の旅》のような曲にはアンコールは普段は付かない…というか、終曲の寂寥を抱えたまま帰るものだと思っておりまして、例えばここで寂寥に耐えられず、口直しと称して景気の良い曲なんかをやってしまえば、辿ってきた《冬の旅》はぶち壊しになるわけです。《冬の旅》の直後に演奏して大丈夫…と言える曲は少ないのでしょう。


 此度のアンコールの《セレナーデ》はむしろ《冬の旅》との接続感を強く残すように演奏され、本来は存在しない25曲目、あるいは回顧型のエピローグのように機能したと思います。有名曲だからという理由だけで演奏されがちな《セレナーデ》が、コンサートの文脈上で意味を持ちました。客席の皆様もささやかな救いを聴き届けた心情で帰れたのではないでしょうか。


 伊藤那実さんの伴奏も普段より表現のパレットが多彩になっていたように感じます。これまでにはアラカルト的なプログラムでの演奏が多く、一つの大規模作品に集中して取り組む回はこれまでには殆ど無かったのではないかと思いますが、Luther&伊藤コンビの真骨頂を見せていただいたように感じます。この二人の演奏で大きな歌曲集なり、連作歌曲なりをもっと聴いてみたいと思ったのは僕だけではないはずです。


 三輪えり花先生は今回は翻訳と字幕を担当されていました。《冬の旅》のストーリーは僕は既に一通り把握していますが、『シェイクスピア遊び語り』の時に読み覚えがあるような言葉の選び方を懐かしく感じました。ミュラーの詩自体も深掘りすると謎が多いと思われますが、今回のLuther先生の意図に沿った翻訳であったと思います。


 

 何故今このタイミングで《冬の旅》をやろうとしたのかという理由までは聞いていませんが、しかし最近のLuther先生の演奏活動を鑑みると異例の内容であったことは事実でしょう。異例とは言え、これはこれでもっと聴いてみたいと思わせるような演奏会でした。特にここ最近はエンターテインメント方面の音楽に多く関わられていた印象がありましたから、いきなり極めてシリアスなものを持ってきたことには当初は驚いたものです。


 決して《冬の旅》はクラシックに馴染みの薄い人に対して親しみやすい作品ではありません。それどころか、普段からクラシックを聴いている人にとってさえ重量級の作品です。


 それでも、今回の演奏を聴いて思ったことと言えば、どんなに親しみにくい難解な作品であっても、演奏が良ければ集中して聴けるということです。世間では「有名な定番の小品を集めてクラシックに親しんでもらって…」などという考えが流行り、間口の方でばかり派手に色々やってんな…などと感じてしまうわけですが、「良い演奏で聴かせる」というただその一点が極まるだけでも、聴き手がその音楽の深奥層にリーチする可能性を生み出せるのではないかと考えます。


 どんなに口先でそれらしいことを宣って偉そうな虚像を作り上げようが、演奏においてその誤魔化しは一切機能しないのが事実でしょう。その反対側で、徹底的に磨き上げられた演奏が軽薄な言葉などを一気に飛び越えて聴き手に到達するのも真実かもしれませんね。


 シューベルトの《冬の旅》も憧れの作品ではありますが、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》やベートーヴェンの後期の3つのピアノソナタなどを良い演奏で届けられるような歳の取り方をしたいと思いました。

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