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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】"有名曲"を演奏することの危うさ


 「みんな同じような曲目を弾くよな」というのはクラシックに対するほぼお決まりのような悪口であります。その曲を良いと思っているのだからほっといてくれよ、という意見があるのはさておき、人によっては「先生に弾くように言われたから」や「みんなが知っている曲の方が『これ知ってる!』という反応があるから」という理由で弾く場合もあるものです。


 はい、「榎本なんて最初から変な曲ばっかり弾いてきたんでしょ?」と思ったそこのあなた、僕も先生に言われてショパンやメンデルスゾーンやリストのお馴染みのあれこれを弾きましたとも。見事に共感できず、それが演奏に滲み出たのか、もれなくギッタギタの評価を受けたりもしました。あと、僕が普段弾いている曲も有名な部類の作品だと思います(当社比)


 クラシックの作品の中でも知名度の高い曲、俗に言う有名曲というものは、確かにそれだけ多くの演奏家たちの手によって演奏される機会に恵まれた作品です。そこに演奏家たちを惹き付ける魅力があったということは確かでしょう。一時期爆発的に流行ったものの廃れてしまった曲というものも歴史上にはありまして、掘り起こしてみるとこれが意外に面白かったりもするのですが、やはりどこかに穴があるような気がすることもあります。


 だからと言って「有名曲には歴史の淘汰を潜り抜けただけの魅力が備わっているんだ!」などと主張するためにわざわざ記事など書きません。ちょっとした別の視点から、有名曲(知名度の高い曲)を演奏するということの怖い方の話を考えてみたいと思うのであります。


 

 有名曲を演奏するということの最大のメリットは、聴き手が「これ知ってる!」と乗って来てくれることです。興味喚起においては最も有効なフックになり得るでしょう。聴き手が普段からどれほど音楽を聴いているかという要素に依存してしまうのですけれども、お金を払って未知の音楽を聴いてみようと考える人の方が稀少であろうことは間違いないと思います。


 そうそう、度々笑い話にするのですが、学生時代にコンサートでフランクの《前奏曲、フーガと変奏曲》を弾いた時、お客様に「素晴らしい演奏だった。でも知っている曲をやってくれたら楽しかった」という感想を書かれた経験があります。フランクの作品の中では有名な方だろ…とは思いつつも、なるほど、一般の人たちは「知っている曲」というだけで楽しめるものなんだな…と思ったことが記憶に残っています。


 お客様が「知っている曲」というだけでも満足していただけるというのは、演奏者にしてみればなかなか好都合なハードルの低さではあります。お馴染みの曲だけレパートリーとして取り揃えてしまえば、後は新しい曲を何も練習しなくてもいつでもコンサートプログラムは組めてしまうわけです。こんなに楽なコンサートは他に無いでしょう。


 わざと嫌な書き方をしましたが、これは実際に起こっていることであります。とりあえず演奏しておけば満足してもらえる作品というステータスに甘え、粗だらけの演奏が披露されるようなことは全く珍しい話ではないのです。


 演奏家としてもこの体験を繰り返すと、段々と演奏の粗を許容し始めてしまいます。ただ、この慢心を見抜く聴衆は案外少なくないということはある種の救いであるようにも思います。


 

 ここまでは有名曲を弾くことが "楽" であるという視点で書いてきましたが、実は全く逆の見方、即ち「有名曲を弾くことは全く楽ではない」という視点があることも書いておきたいと思います。


 有名な曲であるということは、殆どの場合、他の演奏家も演奏している曲であるということを意味します。つまり、演奏の比較対象が多いのです。


 耳の肥えた聴衆ならば、同じ曲でも複数の演奏家が手掛けた演奏を知っていることでしょう。その中でも差があるとは言え、各々の "ベスト演奏" のようなものが確立されている人もいます。


 そのように既に聴衆の知っている他の演奏と自分の演奏が比較されることになるのです。それこそ、その比較対象は存命現役の演奏家ばかりではなく、既に故人となったレジェンドたちも含まれてきます。


 そう考えると、もはや "粗がある" というだけでも許されるものではないどころか、先人たちやライバルたちより抜きん出た音楽をやらねばならないということが明るみになるでしょう。先程書いたことと矛盾しそうで両立する話なのですが、有名曲を演奏するということは所謂レッドオーシャンでもあるわけです。


 誰もが弾くであろうその曲を、誰よりも良い音楽として聴かせるという意志と覚悟と自信はございますでしょうか。


 

 演奏会のチラシにはお馴染みの曲目ばかりが並ぶ昨今であります。見かけ上で名曲集をやること自体は否定しません。しかしその魂胆として、「とりあえずこの曲を弾いておけば客は満足するだろう」という傲りには負けないようにしなければならないと感じます。


 演奏するからには、他の演奏家たちのものに全く劣らない、新たな世界を拓くような演奏をしなければ、その意義を深くは残せないかもしれません。よほど酷い演奏をしない限りは酷い評価をされない代わりに、よほど素晴らしい演奏をしなければ印象にも残らないわけです。


 そんな血の海に全身どっぷりと浸かって人気を得ていくよりは、もう少し別の作品にも目を向けて取り組んでみた方が、業界全体としても提供される音楽の多様性は豊かになるでしょうし、個々の演奏家たちそれぞれの拘りなども見えてきて面白いのではないかと考える次第であります。


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