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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【感想】グラス《浜辺のアインシュタイン》:寄せては返す、波あるいは夢




 10/9(日)は、神奈川県民ホールでのグラスの《浜辺のアインシュタイン》公演を観に行ってきました!


 作曲者フィリップ・グラスと言えば、ミニマル・ミュージックと呼ばれる作風(グラス自身はこの呼称に否定的らしい)を始めた作曲家の一人であり、その中でもオペラの作曲家として知られています。そんなグラスの最も名の知れた衝撃作こそ、この《浜辺のアインシュタイン》でしょう。CDも持っていますし、コダーイラボでも曲の存在はチラッと紹介したかもしれません。


 《浜辺のアインシュタイン》は名目上はオペラに分類されます。しかしそこにはストーリーらしいストーリーが存在するわけでもありません。音楽、舞踊、演劇、美術などが組み上がった総合芸術としてのオペラです。楽器編成も特殊で、一般的なオーケストラではなく、電子オルガンが入っていつつも見た目には室内楽的です。


 今回の神奈川での公演は12:30開場→13:30開演。会場は広いし入るのにも混雑するだろうと思った僕は13:10頃に会場に入りました。


 会場に入るとなにやらBGMらしきものが流れている…と思った数秒後には、それが《浜辺のアインシュタイン》に出てくるA-G-Cというオスティナートであると気付きました。それだけならば「公演が始まる前の雰囲気作りとは工夫したな」と思ったでしょう。


 そこから舞台の上に目を向けると、箒で掃き掃除をしている人が2人。なるほど、開演前には掃除もしておかなければね…と一瞬考えそうになりましたが、よく見ると衣装を着ています。開演前から舞台は既に始まっていたのです。観客たちはホールに入ったその瞬間から音楽に包まれていたのでした。音楽が途切れること無く指揮者のキハラさんが登場、拍を数える合唱が始まったのでした。


 このオペラはストーリーらしいストーリーを持たず、どちらかと言うと場面場面でそれぞれ別々のイメージのワンシーンが投影されては消えていくような構成をもっています。パンフレットに載っていたので「イメージ」という言葉を先に出しましたが、主観を書かせていただくと、僕はこれらを一つ一つの「夢」のように受け止めました。


 「夢」といっても完全に詩的な意味ではありません。もちろんそのようなニュアンスもありますが、夢に出てくるような、脈絡の判然としない、混沌とした、しかし何故か破綻しないシーンの数々であるように感じたということです。


 僕も寝ている時には時々夢を見ます。内容を覚えていることもありますし、起きた瞬間に忘れてしまうこともあります。内容を覚えているものについても、なんとなく現実的な夢もありますし、どう考えても夢だと思うような夢もあります。明晰夢が見られるということは少し羨ましくもありますが、僕自身の場合は「どう考えても夢としか思えないような夢」さえも、夢の中にいるうちは気付けた例がありません。


 人々が、日本語ではあるけれど意味のよくわからない言葉を話している、一方で僕自身もやはり日本語ではあるけれど意味のよくわからない言葉を話している(何故かスラスラとそれが出てくる)、風景が現実ではあり得ないことになっている、現実では起こり得ない物理現象が起こっている等々…それらを夢の中で見てもなお、それが夢であることには気付けないのです。


 今回の《浜辺のアインシュタイン》には、それとかなり似たような感覚を与えられた気がします。


 一部の感想には「ナレーションが聴き取りにくかった」という声もあったようで、確かにそれを全く感じなかったわけではありませんが、ただ僕はこれをすっかり自分に引き寄せて「夢」と捉えているので、夢の中で意味を掴みきれない言葉が交錯し混沌を形成する様子を、もはや一周回って幻想的であるとすら思ったのであります。


 なるほど、開場時から続くA-G-Cの反復によって夢へと没入し、様々な夢を渡り歩き、最後は同じく冒頭の反復によって夢から現実へ緩やかに帰還する…という一つの山があったのではないかと、終わった後から振り返りました。


 当時の社会背景を反映した場面や台詞も多々盛り込まれていたことは知りつつも、それを含めて「連鎖するイメージ・夢」としてこの舞台は僕の感覚に飛び込んできました。音源CDは所持しておりまして、それもたまに聴いているのですが、今回のように視覚要素もある舞台として、またCDには入らない意外な音圧と重量感をもった生の音楽として、この公演に接することができたのは大きな喜びでした。


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