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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽理論・音楽史】トーン・クラスターはどこから来たのか?

 ポーランド前衛音楽の旗手として活躍し、後にロマン派へと回帰した、現代音楽界では長老格であった作曲家・指揮者のペンデレツキ(Krzysztof Penderecki, 1933~2020)が亡くなりました。


 僕がペンデレツキを知ったのは中学生の時です。と言っても、実際の音楽ではなく、解説書の譜例がファーストコンタクトでした。《広島の犠牲者に捧げる哀歌》のクライマックスに出てくる、真っ黒な太い帯のような楽譜。これはどうやって演奏するのかと興味を引かれたものです。その後、高校生の時にペンデレツキの代表作品集アルバム(CD2枚組)を買い、一時マイブームになりました。



 ペンデレツキは「トーン・クラスター」という技法を駆使した作曲家として、その名を轟かせました。

 これは一体どのような技法なのでしょうか。


 トーン・クラスター。日本語では音群技法と呼ばれます。

 全音や半音、さらには微分音(半音より狭い区分の音)という音程で重ねられた音(tone)の “群(cluster)” を用いて音楽を作ります。1960年代の前衛音楽シーンにおいてこの技法は注目されました。


 

 しかし、実はトーン・クラスターは前衛音楽の中で新しく考案された技法というわけではなく、その試みは戦前から存在していたのです。


 おそらく「トーン・クラスター」としての最初の例はアメリカから始まったと思われます。

 記録上ではカウエル(Henry Cowell, 1897~1965)のピアノ曲《3つのアイルランドの伝説》の第1曲「マノノーンの潮流」が最初のトーン・クラスターの使用例とされています。カウエルはピアノの鍵盤を掌や腕で弾くことを指示しています。これによって、ピアノを普通に弾いただけでは発せられない効果音的演出を音楽に持ち込むことができるようになるのです。

 この作品を成す3曲はどれも「民謡的なメロディ」+「クラスターによる効果音演出」という構造をしており、楽譜や演奏の見た目の割には非常に聴きやすい音楽となっています。なお、僕はこの作品を昨年の2月と3月に横須賀と渋谷で実演しました。


《マノノーンの潮流》

《英雄の太陽》

《リルの声》

「記録上では」と書いたのには理由があります。《マノノーンの潮流》を書いたのは1912年であるとカウエルは主張していたのですが(つまり15歳)、実際には1917年であったということが近年判明しました。つまり話を盛っていたのです!


 これに従い、やはりアメリカの作曲家 アイヴズ(Charles Ives, 1874~1954)が書いた《ピアノソナタ第2番「マサチューセッツ州コンコード、1840~60年」》、通称「コンコード・ソナタ」の第2楽章「ホーソーン」に出てくるクラスターがカウエルに先んじていたことになります。この曲のクラスターは予め用意しておいた板を用いて鳴らします。


第2楽章「ホーソーン」

 アイヴズがどこからこのアイデアを持ってきたのか、僕にはわかりません。しかし、ちょっと余談という形で、それっぽいものをアメリカの音楽に見たということを書きます。


 

 時を遡りまして、19世紀の半ば前後。アメリカにはとあるヴィルトゥオーゾ・ピアニストがいました。その名はゴットシャルク(またはゴッチョーク、Louis Moreau Gottschalk, 1829~1869)、あのショパンが「行く末はピアノの帝王」と評した人物です。

 彼のピアノ作品はリスト顔負けの超絶技巧を凝らしたものばかりでして、弾けばコンサート映え間違い無し(ただし精神的内容は割と薄い)という話はさておき、その書法には興味深いものが出てきます。


《ブラジル国歌による勝利の大幻想曲》

《ユニオン》

 それぞれ《ブラジル国歌による勝利の大幻想曲》、《ユニオン》からの抜粋です。どちらも曲の調とは無関係な「F-G-A-H-C」の音で、ダララララン!という打楽器を模した音型が、伴奏として演奏されます。分散されて書かれてはいますが、音楽としての聴こえ方は隣接する5音によるクラスターに非常に近いです。


 これがアイヴズに繋がるかどうかはわかりません。ただ、同じアメリカという国で似たようなサウンドが過去にあるということが示唆するものもあるような気はします。


 

 話は近代に戻ります。

 カウエルのPRしたトーン・クラスターがどこまでどのように波及したかは把握していませんが、ヨーロッパの作曲家たちがトーン・クラスターを採用したのを作品上で確認することができます。

 その中でもハンガリーのバルトーク(Bartók Béla, 1881~1945)は分かりやすい例でしょう。《野外にて》の第4曲「夜の音楽」や《ピアノソナタ》の第3楽章に、指や指の付け根を用いたクラスターが見られます。


「夜の音楽」

ピアノソナタ 第3楽章

 そして《ピアノ協奏曲第2番》にも掌のクラスターが現れます。両手で交互に弾きます。

ピアノ協奏曲第2番

 ただ個人的には、これらに関しても本当にカウエルからの影響だけで導き出したものなのかという疑問は残るところです。バルトークの場合は民族音楽の要素を発展して不協和音を生成するというアイデアも思い付くようにも考えられるからです。このあたりは僕も研究せねばと思うところです。

 バルトークが民族音楽の音階をポリフォニックに組み合わせることで音のぶつかりを実現したことは、同じくハンガリーのリゲティ(Ligeti György, 1923~2006)に繋がっていきました。蠢くポリフォニックなクラスターはペンデレツキのものとはまた異なる音楽となりました。《アトモスフェール》、《ルクス・エテルナ》といった代表作を聴くのも非常に刺激になると思いますが、合唱のための《夜》あたりが取っ付き易いでしょう。


 

 ところで、もう一つ興味深い例を。

 カゼッラ(Alfredo Casella, 1883~1947)というイタリアの作曲家がいます。フォーレの門下生であり、ラヴェルやファリャとは『アパッシュ』というサークルの仲間。イタリア帰国後はレスピーギらと共に活動しました。

 彼が作曲したピアノのための《ソナチネ》Op.28の終楽章には偶発的に?クラスターが出てきます。

ソナチネ

 この曲が書かれたのはイタリア帰国後の1916年のことです。そう、カウエルが本当に《マノノーンの潮流》を書いた1917年よりも先んじているのです。カゼッラとしても騒音的な効果(fragoroso)を上げようとしたものであろうという意味ではカウエルと似ているようにも思えますが、さてカゼッラはどこからこの技法を思いついたのでしょうか。


 

 結論は出ないまま記事を終えます。

 誰が何の影響を受けたかというパズルは簡単にパチパチと解明されるものではありませんが、歴史を辿り、どんな考えの下に作曲家がそのような音楽を書いたのかを想像することは、自身が音楽に関して想像力を働かせる材料になることでしょう。

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