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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽史・雑記】ムジクスとカントル:音楽を"理解"しようとすること

 「音楽は音を楽しむものであって "音学" ではない!」という、上手いこと言ったような言葉が時々見られます。いきなり揚げ足を取るようで悪いのですが、"音楽" の語源は別に「音を楽しむ」からではないですね。「楽」という字も音楽のことを指します。


 確かに日常生活で考えてみると、音楽に対する需要は「楽しむ」要素へのものでしょう。一般の人々が音楽における学術的要素を求めることはさほど多くないと思います。興味を持つ層をどう広めに見ても、アマチュアで音楽をやっていたりする方々まででしょうか。演奏家や作曲家の中でも、「聴衆を感動させるのは理論じゃないよ!」という意見を持つ人は少なくもないはずです。


 

 僕はクラシック音楽の演奏家ですのでクラシックについての話を書きますが、歴史を遡るとクラシックが単に「楽しむ」ためだけのものとして扱われてきたわけではないことがわかります。むしろ "音学" というか、学問研究の対象であったとさえ言えます。


 現代でリベラル・アーツという言葉を耳にすることがあると思います。人文科学・社会科学・自然科学を横断的に学ぶものですが、中世のヨーロッパにも "自由七科" と呼ばれる学問がありました。セプテム・アルテス・リベラーレス、その内容は、算術・幾何学・天文学・音楽の四科、文法・修辞・論理の三学でありました。音楽は数学に関わる必修四科目の中に含まれていたのです。音楽美学や音楽理論といったものは、音楽をスキエンティア(学)として捉える伝統の上に考えられてきたものであると言えるかもしれません。そして知性と精神は矛盾しないのであります。


 ところで、ではそのような時代にはただ「楽しむ」ための音楽は無かったのかというと、あったにはありました。しかし、それらの音楽は蔑視されていたという事実もあります。古代の音楽理論を中世に伝えたボエティウスの著書『音楽提要』では、音楽の理論を理解する 音楽家 ムジクス と、演奏にのみ携わる 楽士 カントル を分け、ムジクスを上位に置いています。ボエティウスの考えに同調するグイードについても、ただただモノコルドで出した音を真似て音を取ろうとするのではなく、ソルミゼーションによって音の特性を理解して歌うことを求めています。


 

 現代では価値も多様化し、聴衆を楽しませるための音楽の地位も上がってきました。カントルでも現代ならばそこまで風当たりの強さを感じずにやっていけそうです。ただ、それがクラシック音楽の背景的によろしいのかどうかは心に留めておいてもよいでしょう。頭を使った方が表現できることもありますし、表面的に楽譜に書かれている通りを音楽に変換しましたというのは案外作曲家が大事にしたかったことを見落とすことに繋がったりもするわけです。


 僕自身も耳が痛い話なのですけれど、昔リストの《ダンテを読んで》を弾いたことがありました。僕の師匠ではないのですが、大学のとある先生が「若いピアニストたちがこぞって《ダンテを読んで》を弾くのにダンテ(の作品)を読まない…」と苦言を呈していました。それを知っていたのでいざ読んでみると、これが全然ピンと来るものが無く、簡易解説されている本を読んでもまだわからず、結局ダンテの世界観やリストが何を提示したかったのかもわからないまま本番を終えるという、稀に見る不誠実を働いた苦い思い出があります。おそらく僕にはダンテを読む準備すら整っていなかったのかもしれないと今では思います。


 反映されている思想やアイデアを読み取れることによって顕現する音楽があると思うのです。そのためにも、演奏者は多くの教養を普段から吸収せねばならないと思います。いざ思い立ったときにいきなりできるものではないでしょう。それこそムジクスやらカントルやら言っていた時代よりも求められるものは多いかもしれません。音楽理論や音楽美学といった直接音楽に関わるものから、文学や美術、舞踊や演劇など他の芸術分野から、さらには宗教や政治、歴史や科学から学べることもあるでしょう。


 「他人を楽しませるのに理論なんて要らないよ」と宣うのは自由ですが、自分が感じ取り、届けることのできる音楽は拡がるのではないかと思います。「楽しければいい」に満足するのではなく、誰しもがムジクスであろうとしなければならないかもしれません。そして、知性の面からも音楽を探求していく方が生きるのにも豊かそうだなと、僕自身も思ったりするのであります。

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