ヘクサコルドというものに興味を持ったのは、実のところ、ここ1, 2年のことです。やはりきっかけはコダーイラボで西洋音楽史を担当することになったので普段自分があまり意識を向けていない分野も総浚いで勉強し直したことでしょうか。
旋法というシステムについてはそれこそ昔から感覚的に好んでいたと言えます。長調や短調よりもドリア旋法やフリギア旋法などの方に惹かれていたくらいでして、僕が普段からドビュッシーやバルトークやファリャの音楽を好んでいることと無関係ではないでしょう。
24の長短調の好みよりも、その旋法が"どのようにしてその旋法になっているのか"ということに対して僕の興味はありました。階名(いわゆる移動ド)に共鳴したのもそれが要因と言って良いでしょう。
しかし僕が意識してきたのは、七音の階名でした。ヘプタコルドとも呼べるかもしれません。やはりピアノから入った人間ですし、階名に気付いたのも鍵盤上でのことでした。ヘクサコルドという発想はヘクサコルドを調べるまでは知りませんでしたし、理屈はわかっていても実践として使うことはありませんでした。
そんな折に、Twitterで一方的にフォローしている櫻井元希さんがヘクサコルドの教本を書き、ワークショップも開催するというのですから、教本だけ買って独習というだけではなく折角だから1回受講してみよう!と思い立ったわけです。
大島俊樹先生のヘプタコルド教本『階名唱(いわゆる「移動ド」唱)77のウォームアップ集』と比べて内容量4.5倍という力作です。大島先生の教本に触発されて櫻井さんはこの『旋法とヘクサコルド』を書いたそうで、大島先生の本とも類似した形式が見られます。旋法の種類が多いのとグレゴリオ聖歌が載っている分だけページ数が多い感じでしょうか。
ワークショップの内容はネタバレの少ないように書こうと思いますが、正直ネタバレしてしまったところでその場にいなければ伝わらない要素が大半でしたから、僕の感想の列挙しかできませんし、それで充分でしょう。
最初に結果を言いますと、「ヘクサコルドよりもヘプタコルドの方が便利でいいじゃん」という僕の愚かで浅はかな考えはものの見事に爆発四散しました。
UtがDoになり、Tiが追加されて音階が循環できるようになったヘプタコルドによって、強靭な調性音楽システムの確立が達成されました。階名の各シラブルも和声法の後ろ楯を得て明解な性格を規定されるようになり、機能的な音楽が実現されたのです。
しかしそれによって、歌う個々の感触は稀薄になっていったのでしょう。身に覚えはあります。既に組み上がった音楽の再現のために演奏者がパーツのように音を鳴らして並べていく様は、すっかり管理社会の奴隷になってしまった人間を見るようでもあります。
ワークショップは自分自身の身体感覚と向き合うところから始まりました。声をもって母音による歌を口から発する時に、身体感覚は何を感じているのかということにじっくりと向き合う時間が過ぎます。オカルトっぽいかどうかはさておき、この感覚は大事なものであると思います。
「何を歌っている時に自分がどのような感覚か」というポイントは僕自身も重要視していたつもりでした。そのつもりでしたが…なるほど、僕も機能和声の奴隷であった現実を痛感することになったのでした。ヘプタコルドは機能性、ヘクサコルドは身体性と結び付く傾向があるように思いますし、後者の方がより人間に近い気もします。
グレゴリオ聖歌をヘクサコルドで歌ったことも非常にためになる体験でした。かつてGraindelavoixの音源を聴いた時にはそのプリミティヴな表現に「何だこれは!?」と思ったものでしたが、その感覚がフラッシュバックするようでした。ワークショップで歌った聖歌は流動的で豊かな表情をもっており、それこそがヘクサコルドによって明らかになる表情表現であったのです。整えられた「クラシック」というよりは、音楽を感じるままに情熱を迸らせる原始的なものでした。いかに現代の音楽が整理され硬直してしまっているかを思い知らされます。音から音へ移行する時にヘクサコルドのシラブルに基づいて発音後にさえ表情が千変万化するという表現はピアノには物理的にできないことですから尚更羨ましいと思います。
現代においてヘクサコルドどころか階名(いわゆる移動ド)自体が消滅しつつあるという事実は、相変わらず由々しき事態でありましょう。それは日常のヘプタコルドの時点でも、シラブル(ヘプタコルドの場合は機能とも言えるかもしれない)にそぐわない表現で演奏する音楽に遭遇してはがっかりするものです。ヘクサコルドから見たら、ヘプタコルドでさえも機能和声を手に入れた代償として失った表現があるのかもしれませんが。
ヘクサコルドは一つの旋律の人間的な表情を解き明かし、人間自らが歌う喜びを味わえるものでしょう。ヘプタコルドに至って、主体は人間から機能和声に移ってしまったのでしょう。確かにヘプタコルドは音楽の構造そのものの表現実現には適した方法なのかもしれませんし、それを喜びとする人間の考えを否定はしません。ただ現実として、音楽がその機能に対して人間を従属させるようになった面はあるのでしょう。
ヘクサコルドからヘプタコルドに転換されたというだけでも得たものと失ったものがあったという話に触れて、現代の音名偏重(「イタリア音名」と「階名」の混同さえも広く見られる)が進んで階名が喪失した時、人間は何を得て何を失うのかという不安を新たに感じた次第であります。
例えばピアノ教育において長く広く行われて来てしまったであろう鍵盤固定ド。「ド」と楽譜に書かれていたら「ド」のシールが貼られた鍵盤を押すという"作業"が行われます。これがピアノではなく他の弦楽器や管楽器になると運指固定ドになったりするわけです。
例えばピアノロール。今やYouTubeなどにアップされた動画の形で、弾く鍵盤を指示するバーが降ってくるわけです。これならもう五線譜すら読む必要が無く、バーが当たる鍵盤を見たまま弾けばよいということになります。
例えば歌の音取り音源。楽譜を読めなくても音源に合わせて鸚鵡返しのように繰り返し歌うだけで自分の歌うメロディがわかりますね。合唱等では他のパートの音は消去され、本当に特定のパートが歌う音だけを収録したものが多数派でしょうか。
楽譜を読まずにピアノが弾ける、歌が歌えるようになるのだからなんと便利な時代だ!と思われるかもしれません。なるほど、人間は音楽の力学を把握できなくても外面的には演奏をすることができるという利点を享受するようになったでしょう。しかしその代わりに失ったものは、音楽が人間らしくあるための要素を明らかにするためのものではなかったでしょうか。
櫻井さんはヘクサコルドからヘプタコルドへの変遷によって「人間が機能和声の部品になってしまったような」という言い方をされていましたが、階名が消滅した先にあるのは「人間が楽器を操作するための機械になってしまう」世界ではないかと僕は危惧しています。音楽の外の世界でも既に、人間をデジタルの正しさの中に落とし込んでいく営みが行われているような気がしなくもありませんが…
櫻井さんのワークショップについての話に戻りますが、普段グレゴリオ聖歌を歌わなかったとしても、たとえクラシックに限らずとも、音楽に携わる方は一度は必ず参加してみてほしいと思います。音楽の根幹に関わる話でもありますし、人間として音楽をどのように感じ捉えるかという話にも繋がります。
ピアノでも、多くの人がJ.S.バッハの存在を大きく見ていることでしょう。そのバッハはヘプタコルドではなく、ヘクサコルドで音楽を捉えていました。「ヘクサコルドでバッハを読む」ということは、声で歌わないピアノ奏者にとってさえも無関係なことではないと思います。
最後に一つ、僕がこのワークショップ中に思わず泣き出しそうになった部分を書いておきます。
ヘクサコルドにおいて一番高い音のシラブルはLaです。ヘプタコルドにあるTiはヘクサコルドにはありません。しかし実際のグレゴリオ聖歌の中には、このLaより半音高い音が頻出するようで、本来はこのLaをMiに読み替えてFaとして歌うのでしょうが、実際にはFa supra Laといって La ↗️ Fa ↘️ La を半音で歌うのだそうです。
地上の重力に抗い、Laという世界の一番高い端から身を乗り出し手を伸ばしてようやく届く半音。ここに等身大の人間の姿が映っているように感じます。
便利だから、楽だから、手っ取り早いから…そういった思いを一旦引き留め、科学の合理主義の前の、かつて人間と共に在った神秘を思い出すことは、きっと現代を生きていく上でも大きなヒントになるでしょう。
Comments