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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】J.S.バッハ愛憎諸々


 ピアノ弾きの中にはJ.S.バッハの音楽を「退屈」であると感じる人も存在するようです。このことは決して非難されるべきことではないと思いますし、それどころかその事情を僕はある程度理解できる気がします。



 というのも、僕自身も長らくバッハの音楽のどこが面白いのかをわからずにいたのでした。


 それこそ小学校4年生あたりで、多くのピアノ学習者の例に漏れず、僕もバッハの《インヴェンション》に取り組み始めたわけですが、右手と左手のパートがどちらもメロディであるという見ればわかる事実に対してはそれがどうした以上の思いは無く、曲として好みのものと好みではないものが混在しているにすぎないものでした。


 しかも《インヴェンションとシンフォニア》はそれぞれ15曲です。24の長調・短調が揃っているわけでもなく、「何故欠けている調があるのか」という疑問だけが矢鱈と大きく残りました。


 そしてどの曲も「テーマを強調する」という単純な演奏方針で練習していたため、何を弾いてもやることは同じという、まさに"退屈"のスパイラルに陥ったのは当然のことだったでしょう。


 30曲を終えたのはもはや高校生になってからでした。音大受験を控え、課題曲には当然のように《平均律クラヴィーア曲集》が入っているのです。どうにかそれに間に合わせなければならない、と急いでいくつか数をこなし、結局入試では第2巻のc-mollを弾きました。


 《インヴェンションとシンフォニア》とは異なり24調揃っている《平均律クラヴィーア曲集》でも結局やることはあまり変わらず、それどころか技術的にも構造的にも複雑になったため、もはや"退屈"など通り超して"何をすべきかわからない"の域にまで行ってしまい、入試の後でもう1曲弾いたきり楽譜を棚にしまいこんでしまいました。


 僕の周囲の音楽家たちはほぼ全員《平均律クラヴィーア曲集》を非常に好んで愛奏しているので、自分の居場所の無さを感じてなかなか心地が悪かったのは事実でした。「フーガを弾くと心が洗われる」などと他人が言っているのを聞いた日には、自分の感性がおかしいのではないかと思い詰めて消えたくなるくらいでした。


 

 よくもまあそれでバッハの音楽を排除せずに今まで来ているな、と自分でも思います。ただ、バッハの音楽が《インヴェンションとシンフォニア》《平均律クラヴィーア曲集》だけではないということを体験できていたことは大きな要因だったのではないかと振り返ります。


 僕が通った高校にはオーケストラ部があり、また電子チェンバロが保管されていました。僕自身は合唱部だったのですが、チェンバロの通奏低音でオケ部の先輩方と共演する機会をいただけまして、バッハの《羊たちは安らかに草を食み》とパッヘルベルの《カノン》を演奏したのでした。これが僕の初めての通奏低音体験であり、まだ数字付き低音は読めなかったのでコードネームを書き込んで対応したものでした。また大学に入ってから複数の合唱団で歌っていた時にも、バッハの《主よ、人の望みの喜びよ》を歌う機会に恵まれました。


 自分がピアノで弾くことが無いままでも、別の形でバッハの音楽との繋がりだけは保たれていたわけです。そしてそのような通奏低音や合唱を通してのバッハとの関わりは、ピアノを通してのそれよりもずっと楽しいものでしたし、《インヴェンションとシンフォニア》→《平均律クラヴィーア曲集》とひたすら片っ端からこなすだけの窮屈な道から僕を解放したのでした。


 そして大学院を出てからバロック音楽やバッハに深く取り組む音楽家の仲間たちと出会い、僕自身が教える立場になったことでバッハよりも前の作曲家たちの作品を勉強し演奏するようになり…そうしてから久しぶりに向き合ったバッハはもう「退屈でわからない」音楽ではなく、その全てを汲み取ることまではできないまでも、非常に多くのことをその中に包含した音楽であることは段々と感じ取れるようになってきているのです。


 さすがに今からバッハの研究家になれるとは思いませんし、その域にまで到達しようとは思いません。ただ、自分の時代までの音楽をその創作の中でまとめ上げ、次の時代数百年を生きる多くの音楽家たちへとその音楽を伝えた、J.S.バッハという興味深い音楽家が存在したということを知っておいて、その音楽を拾い上げることは面白いことです。


 どうか、バッハを対位法の練習曲としか見ないような向き合い方でなく、もっと様々な音楽に興味を向けてほしいと思います。彼の仕事であったカンタータ、アンサンブルの愉しみが溢れる協奏曲、様々な性格の音楽がお得なセットになった組曲・パルティータの数々、本人の演奏領域であろうオルガン作品、超大作《マタイ受難曲》《ミサ ロ短調》…聴くべきものはたくさんあるでしょう。フーガしか聴かないままでバッハの音楽を「退屈」と断ずるのはあまりに早いと思います。


 また、バッハの音楽に向き合うにあたっては、さらにその前の作曲家たちの音楽にも興味を向けてみるとよいのではないかと想像します。なにせ僕もそこまで詳しくないので偉そうなことは言えないのですが、フィッシャーやスウェーリンクを弾いてから「バッハって凄いかもしれない…!」と本格的に思い始めたのです。今年の4月にフローベルガーに挑戦することにしたのも、バッハへと至る道へのピースを埋めようという考えがあってのことです。



 一部だけを見て退屈だと言うことは簡単です。入り口は一箇所だけでなく色々なところに存在しているのですから、すぐに面白さを見つける必要は無いまでも、どこから入ればよいかを色々試してみないことにはそもそも馴染むことすら無いままでしょう。特にピアノ弾きは「ピアノで弾けない曲には見向きもしない」ということをしない方がよいであろうということだけ書いておきたいと思います。



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