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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】和声の勉強を活かすこと



 和声法、あるいは和声学とは、ざっくり言ってしまえば、どのように和音を構成するか、そして和音がどのように継続的に連結されていくか、ということに関する研究です。名前からすると、音楽の垂直的な側面についてのみ勉強するかのように思われますが、和音を形成する各声部がどのように繋がっていくかという観点を無視してよいものではなく、対位法とは密接な関係にあります。


 和声法は音大においては、もちろん作曲科は受験の時点で求められるのですが、他の科でもある程度の内容までは必修とされます。藝大では和音数字表記の林達也『新しい和声』が教科書に採用されましたが、長らく和声教本として用いられてきた島岡譲『和声 ─ 理論と実習』(全3巻)や『総合和声』もまだ根強く使われているのが現状でしょうか。僕が和声のTAをやっていた頃は「そろそろ昭和音大も『新しい和声』を導入しようか」なんてことも考えられていたようでしたが、これがどうなったのかは知りません。現在のシラバスを見たところ、『和声 ─ 理論と実習』を使っているようでした。


 

 学ぶテキストによって内容に差があったりすることについてはさておき。


 作曲以外の科においても、ある程度の内容までの和声が必修とされていることは先に述べた通りです。例えば僕が卒業した昭和音楽大学では、1年生で必修になっている『ハーモニー演習①』という科目がそれにあたります(なお、参考試験の点数によっては『音楽基礎演習』という楽典学び直し科目の履修が前段として加えられます)。


 だいたい三和音→七の和音・九の和音→諸借用和音…といった具合に進んでいくことだろうと思いますが、ところで必修となっている『ハーモニー演習①』の範囲がどこまでかというと、属7の和音までです。オルガン/電子オルガン科や教職課程履修者の場合は、続く『ハーモニー演習②』において準固有和音やらドッペルドミナントやらを勉強するところまでが必修になり、そしてその発展形や他の和音を勉強するのが選択の『ハーモニー演習③』となっています。


(余談ながら、榎本は①②③を通して試験満点のS評価をいただきまして、それが元でピアノ科にも関わらず特例的に和声のシニアTAに採用され、学生たちの個別補習を担当していたのでした。その間自分でも勉強は続けていました)


 作曲科でもない学生が3年間みっちり和声を履修(といっても実は『和声 ─ 理論と実習』第2巻を通して終わる程度)してやろう!という気概を持つかというと、やはりそうでもないのが現実でしょう。実際、必修の①だけ取っておけば卒業はできる、という考えで②以降は履修しない学生も少なくはありませんし、あるいは①の単位取得を後回しにする学生もいないわけではありません。


 しかし、実際の音楽作品が本当に三和音と属7の和音だけでできているなどということはかなり稀であります。よく「ロマン派の音楽を分析するなら第2巻までは勉強しなきゃね~」などと言われるのを聞きますが、作品によっては古典派の時点で既にだいぶ視野が足りないとも言えると思います。クレメンティのソナチネやモーツァルトの KV 545 ばかりをモデルにしてどうするのかという話なのです。


 別にテキストを『和声 ─ 理論と実習』に必ず限る必要も無く、より簡易なテキストで勉強してもよいと思うのですが、いずれにせよ頭だけ齧ったところで「曲を和声分析して演奏に活かそう!」というところまでは到達できないのが現実であろうとは思うところであります。


 

 と、ここまでお堅く見えることを書きましたが、実は逆の方向にも危惧していることがあります。


 和声分析を大事にしていることは構わないのですが、楽譜に和音記号や機能をひたすらに書き込んで「これで音楽が良くなるぞ!」と信じている人が一定数存在するのではないかと、経験上感じています。いや、確かにその和音がどんなものであるかを確認するだけで音楽が改善することも無いわけではないでしょうが、それは意識が無いよりはあった方がマシという程度の変化であります。


 和声分析を音楽に活かしていくためには、その和音の記号や機能や進行が何という名前のものであるかではなく、もう一歩踏み込んで「その和音が音楽にどんな効果や演出をもたらすか」を感じる必要があると考えています。この和音は準固有和音、この和音はドッペルドミナント、などと調べて記号を当てることは、ただ機械的な作業でしかないでしょう。準固有和音だからどんな音楽になるのか、ドッペルドミナントだからどんな音楽になるのか…「この和音によって音楽はどうなる?」を想像することによって、ようやく和音は音楽の中で表情を帯びるのです。



 実際のところ、「この和音だとこんな音楽になる」という傾向はあっても法則はありません。一概に言えるほど音楽の表情は単純ではありませんから、結局は音楽の文脈から和音の演出的役割を判断するしかないのです…と言ってしまうと、今度は「そんな頭でっかちに勉強する必要は無いんじゃないの?」という意見も出そうな気はしますが、また翻ってひたすらに「考えるより感じよ!」というのもハードルが高いでしょう。人間というもの、自身が受け止められるぶんの力を持っていないものについては受け止められないという面があります。和音の種類を知識として知っていることによって、音楽を感じようとした時にカギとなる和音へと意識を向けることができ、またその応用形に遭遇した際にも「自分の知っているこの和音をこのように弄ればこうなる」という推察ができるようになるのです。


 

 「勉強せよ」と「感じよ」のどちらかを至上としては、いずれにしても行き詰まるでしょう。これら双方を重視するスローガンとして「捉えよ」という言葉がよいのではないかと最近は考えているところです。それはさておき…和音について知ること、その力を想像して感じ取ること ── この取り組みこそが、和声法の勉強を単なる座学にせず、音楽をやっていく上での強力なツールにする方法と言えるのではないでしょうか…などと、演奏家の目線からは思うのであります。

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