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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【名曲紹介】千原英喜《コスミック・エレジー》

更新日:2022年2月9日

 第2回にして現代日本の合唱曲について書きます。僕の中ではどんな音楽も地続きですので、クラシックには限らないかもしれません。


 

 さて、日本の合唱音楽界では知らない人はいないと断言できる作曲家 千原英喜(1957-)さん。千原さんの作品は日本や東洋の民俗文化の要素を西洋の合唱にミックスさせていくという作風でして、前衛的な書法を採り入れつつもサウンドとしてはかなり親しみやすいという、気がついたら沼に引き摺り込まれているような音楽となっています。


 僕が好きな千原作品は山のようにあるのですけれども、今回紹介したいのは《コスミック・エレジー》という4曲から成る混声合唱組曲。詩は草野心平(1903-1988)のものです。

 “Cosmic Elegy”…「宇宙的哀歌」ですね。第1曲『さようなら一万年』のテキストは『原子』『さやうなら一万年』という2つの詩によりますが、『さやうなら一万年』について草野心平が「さやうなら一万年はカルピ(蛙の名)によつて作曲された最も一般的なエレヂーである」と書いているそうで、元々第1曲のタイトルとして銘打った《コスミック・エレジー》が後に組曲のタイトルとなったようです。


 

第1曲『さようなら一万年』

 先述の通り、テキストは『原子』『さやうなら一万年』という2つの詩をミックスさせたものです。「インディゴ・ガラスの。」~「唸る星雲。」、「核は一つの星。」~「雲の渦巻き。」の部分が『原子』に由来するテキストですね。

 合唱はかなり厚いハモリになります。1パートにつき2声や3声のdivisi.(パート内でさらにパートが分かれること)は常にあり、最大のところでは1パート4声、全体で16声に及びまして混沌とした音響を作り出します。さらにはナレーション、シュプレヒゲザング、早口で一定の言葉を繰り返すという奏法も登場します。

 声のカオスを経て、曲はブルーノートを含む6音音階を基本に書かれたメロディをもつエレジーに辿り着きます。入り乱れる宇宙を抜けた先に見える抒情といったものでしょうか。


第2曲『鬼女』

 「きじょ」と読みます。千原さんはテキストから能をイメージしたようで、その要素が随所に見られます。テキストに無い、能管を模した「オヒャライ」「ホウホウヒウロ」「ヒュイウリウロ」などという唱え文句、ヨワ吟ツヨ吟を模した強烈なヴィブラート、囃子方を模した掛け声、序破急というテンポ構成、オプションで加わる締太鼓…等々。元のテキストにある「漟漟漟漟。」「ぎいぎやつぎやあ。」といった独自の擬音語(?)も絶大な演出効果を上げています。


第3曲「わが抒情詩」

 この組曲の中でも単体で抜き出されて演奏される機会が多い曲です。それは他の曲と比べて技術的に易しいからというだけではなく、多くの人の心に刺さるものがあるからでしょう。作曲者がブルース風に作曲したと語る通り、5音音階を基本とするメロディで、懐かしい日々の笑いや先の見えないやるせなさがゆったりと歌われます。

 草野心平の『わが抒情詩』は、大戦終結直後の日本における心情を書いた、本当はかなり長い詩です。曲に使われたテキストは作曲者が抜粋し再構成したものなのですが、元の詩にあった戦争直後を想起させる具体的な言葉を無くしたことによって、現代においても普遍性をもつようになっています。それは心理的不安や社会的不安に寄り添ってくれるものであるかもしれません。


第4曲『牡丹圏』

 タイトルの「圏」の字は大気圏や成層圏のそれでしょう。第1曲に出てきたような「渦巻」のカオスを経て、太鼓と鉦、荒々しい掛け声を伴うオスティナートの熱狂へ突入します。転調を繰り返しながら頂点に達したところで再び「渦巻」のカオスへ回帰し、早口で「狂い舞い舞う蝶の乱乱」という言葉を全員が繰り返して大音量のトーン・クラスターを形成し、絶叫をもって曲を終わります。



 この組曲自体は、草野心平の詩世界を千原英喜フィルターを通して音楽化したものだったことでしょう。しかし、それ以上のものを表現し、人々の心に訴えかけた曲があります。


 そう、『わが抒情詩』です。


 「くらあい天(そら)だ底なしの。くらあい道だはてのない。」から始まるやるせない詩を横揺れのリズムに乗って歌っていくその様は、やむにやまれず彷徨するようにも思えます。どん底においても藻掻くしかない。本当に元気であるはずもないのだけど、どうしてもこの心のことを歌わずにはいられない。確かに落ち込んではいるけれども、エネルギーが完全に消滅している音楽というわけではないのです。


 テンポ表記/発想標語は「Andantino elegiaco」です。「Elegiaco」については「哀歌風に」で納得できると思いますが、「Andantino」の方に着目いただきたいと思います。「~ino」は意味を弱める接尾辞ですから「Andante」の意味を弱めたものが「Andantino」となります。「Andante」を「ゆっくり歩くような速さで」と訳すのは厳密にはあまり正しくないと思うのですけれど、現代の認識を基準にそのようなものと考えても、「Andantino」という指示は、そこまで “エネルギーを落とさない” と捉えることもできるでしょう。救いも無いようなほどには下向きな音楽ではないと考えられます。


 ブルースのイメージであるからして、やはり♭系の変化音が特徴的に使われています。長調と言えど、あっけらかんと明るい、というわけではありません。しかし、だからこそ♯系の変化音がエネルギッシュに響きます。「おれのこころは。/どこいった。」という吐き出した叫びの和音に強烈さを感じる人も多いと思いでしょう。


 この曲の転調についても、もうひとつの仕掛けがあると思います。「めうちきりんにいたむのだ。」まで歌詞を一通り歌い切りますが、その後に転調が待っているのです。和音をジリジリ動かして長2度上に転調し、この曲は最後に「ここは日本のどこかのはてで。」の連をリフレインして終わるのです。

 ここで「ああ、ポップスによくあるリフレインで転調するやつね」と言ってしまえばそれまでなのですが、同じメロディを今までより高い音で歌うということにどんな効果があるかを考えると、一つの演出が見えてきます。

 絶対音高を上げることによって、身体の都合から歌うエネルギーが増します。この転調によって、同じメロディをより大きなエネルギーをもって歌うことに繋がってくるわけです。そのエネルギーはもしかすると、前向きなものなのかもしれません。絶望しながらも「この後どうやって生きていったもんかなぁ」と自らを奮い立たせるように聴こえなくもないと感じます。


 

 本当はこの《わが抒情詩》を5月にみんなで歌う予定でしたが、新型コロナウィルスの影響によりイベント自体が吹き飛んだどころか、合唱団の練習自体が停止している状況です。他にも、仕事が無くなってしまったとか、お店を閉業せざるを得なくなったとか、惨憺たる話も飛び込んできます。

 音楽家という博打みたいな仕事柄、普段からこの曲に並々ならぬ共感を覚えていたのも事実です。しかし、まさかこの先が一切見えないような状況に国ごと叩きこまれてしまった今、より一層強く心に迫ってくるものがあると感じています。きっと幸運にも最大限の命が助かったところで、数えきれないほどの大切なものが失われたり消えたりすることになるでしょう。


 全てが終わったら、きっとこの歌があなたを支えてくれることでしょう。


 

 ここは日本のどこかのはてで。

 きのふもけふも暮らしている。

 都のまんなかかもしれないが。

 どこをみたつてまつくらだ。



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