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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽史】《トゥーランドット》と同時期の音楽

更新日:2022年12月29日

 2/28に行う Razbliuto 2nd Concert のプログラムには、プッチーニの《トゥーランドット》の中のリュウのアリアが含まれています。告知記事はこちら


 《トゥーランドット》と言えば、プッチーニの最後の(未完の)オペラです。フィギュアスケートで使われたアリア『誰も寝てはならぬ』は、普段クラシックを聴かない人にも有名でしょうか。作曲年は1920~24年、曲を完成すること無くプッチーニは病気で世を去りました。


 ひたすらにロマンティックな作風が感じられるプッチーニの音楽ですが、その最後の作品が1920年代に書かれているということ。それがどうした、と思うかもしれませんが、これは第一次世界大戦後です。つまりフランスで6人組が名乗りを上げ、新ウィーン楽派が12音音楽を試行錯誤していた時期と重なります。


 完全に興味本位で、《トゥーランドット》が作曲されていた1920~1924年と同時期に他の作曲家がどのような創作を行っていたのかを軽く調べてみました。


 

  • レスピーギ

   《ローマの松》1923~24

  • カゼッラ

   《パルティータ》1924

  • サティ

   《本日休演》1924

  • ラヴェル

   《フォーレの名による子守唄》1922

   《ツィガーヌ》1924

  • プーランク

   《牝鹿》1923

  • ミヨー

   《世界の創造》1923

   《青列車》1924

  • オネゲル

   《パシフィック231》1923

  • フランス6人組(デュレ以外)

   《エッフェル塔の花嫁花婿》1921

  • R.シュトラウス

   《インテルメッツォ》1922~23

  • ツェムリンスキー

   《抒情交響曲》1923

  • シェーンベルク

   《5つのピアノ曲》1920~23

   《セレナード》1920~23

   《ピアノ組曲》1921~23

   《木管五重奏曲》1923~24

  • ヴェーベルン

   《5つのカノン》1923~24

   《子供のための小品》1924

  • ベルク

   《ヴォツェックからの3つの断章》1924

  • ヒンデミット

   《組曲『1922年』》1922

  • バルトーク

   《舞踏組曲》1923

  • ファリャ

   《ペドロ親方の人形芝居》1919~1922

   《クラヴサン協奏曲》1923~1926

  • ヤナーチェク

   《利口な女狐の物語》1921~23

  • シュルホフ

   《ピアノ協奏曲第2番》1923

  • ストラヴィンスキー

   《プルチネルラ》1919~20

   《ピアノソナタ》1924

  • ホルスト

   《合唱交響曲第1番》1923~24

  • ガーシュウィン

   《ラプソディ・イン・ブルー》1924

  • カウエル

   《エオリアン・ハープ》1923

   《富士山の白雪》1924

   《生命のハープ》1924

  • アイヴズ

   《3つの四分音の作品》1923~24


 

 なんとなく同時代の作曲家の顔ぶれと、ドビュッシーやスクリャービンが既に亡くなっていることは把握していました…が、書かれた作品についてはシェーンベルクのものしか覚えていませんでした。ラインナップを見てみますと、なんとも皆が皆それぞれ色々な方向を向いていて面白いことになっています。





 片っ端から見ていきましょう。


イタリア・フランス


 イタリアでは、レスピーギやカゼッラら、新古典主義、そしてオペラではなく器楽に力を入れた作曲家たちが活躍し始めます。レスピーギの代表作である交響詩《ローマの松》が1924年に作曲されました。カゼッラの《パルティータ》はピアノとオーケストラのための作品ですが、タイトルからも古典を意識していることがわかります。ただ、ヴェリズモ・オペラの作曲家としてプッチーニと並んで有名であろうレオンカヴァッロは1919年に亡くなっていますが、もう一人並んで有名なマスカーニは1945年まで生きました。また、ブゾーニが亡くなったのも1924年です。


 フランスでは、ドビュッシーは1918年に亡くなっていますし、サティは晩年(1925年没)でした。ラヴェルも晩期の傑作群に取りかかる直前の時期で、1923年から《ヴァイオリンソナタ第2番》のスケッチを始めています。それよりも今回着目すべきはフランス6人組の出現でしょう。彼らの存在が広く知られ渡るようになるのも1920年頃です。今でも知られる代表作が既にこの時期に書かれている他、デュレ以外の5人の共作によるバレエ音楽《エッフェル塔の花嫁花婿》も1921年でした。フランス新古典主義が始まります。



ドイツ・オーストリア


 まず、マーラーは1911年に既に亡くなっています。《交響曲第10番》なんかでだいぶ先進的なことをやっていたように見えますが、あの時点で50歳だったんですね。1920年代に存命だったらもっと面白いことになっていたかもしれませんが。さて、同じように指揮者でもあったことから比較されがちなR.シュトラウスはこの頃に何を書いていたかというと、家庭のエピソードをネタにしたオペラ《インテルメッツォ》を発表しました。《サロメ》や《エレクトラ》のような音楽を書いていたのはずっと前でして、もうこの頃には新ウィーン楽派の音楽を理解できないと言い、批判する立場に回っています。


 声楽付き交響曲の傑作《抒情交響曲》をツェムリンスキーが書いたのが1923年。シェーンベルクの先輩格にあたりますが、あくまでもマーラー路線にとどまりました。その全く同じタイミングで、オラトリオ《ヤコブの梯子》を書きながら試行錯誤していた12音音楽に突入したのがシェーンベルクです。《5つのピアノ曲》《セレナード》では一部が、《ピアノ組曲》と《木管五重奏曲》では楽曲全体が12音技法で書かれています。


 これを遅れて採り入れたのが弟子のヴェーベルンとベルクですが、ヴェーベルンの方が先に《子供のための小品》(作品番号無し、遺作)でシンプルな形で試しています。「12音音楽で子供向けの組曲を作ろう!」と試みて挫折した結果がこの作品です。新ウィーン楽派の面々にとっても、本格導入や運用はまだまだこれからという時期だったといえるでしょう。


 ちなみにハウアーがトローペ理論を用いて書いた最初の作品である《ノモス》は1919年の作なので、やはりだいたい同時代であり、また、アイスラーがシェーンベルクに入門し、初期の作品《ピアノソナタ第1番》《同第2番》などを書いていたのも1920年代前半の話です。


 ところで、ドイツでは若きヒンデミットが、強い感情表出を排した独自の音楽を発表し始めます。これは新即物主義と呼ばれますが、これといい12音技法といいトローペといい、なにやら新しい秩序の確立を求めているような心情が感じられなくもないです。


 なお、レハールがこれらの間もずっとオペレッタを作り続けていることを付記しておきます。




その他


 19世紀からの長生き勢であるヤナーチェクが存命(1928年没)でオペラを書いているという面もありながら、第1次大戦前とはまた異なる書法を引っ提げた作曲家・作品が登場します。ファリャがクラヴサンを用いたり、バルトークが組曲という形式を使ったりしているところにも古典への興味が感じられそうです。


 1910年前後の3大バレエによって多大な知名度を獲得したストラヴィンスキーも、新古典主義に傾倒した一人です。ペルゴレージの音楽をベースに斬新な音使いを施したバレエ音楽《プルチネルラ》がその代表作といえるでしょう。ピアノ奏者的には《ピアノソナタ》なんかも目に入りますが。


 作曲家によってはジャズを採り入れる人たちも出てきます。実は先述のラヴェルの《ヴァイオリンソナタ第2番》にもその要素が入っていますが、これに関して何よりも大きな作品はガーシュウィンの《ラプソディ・イン・ブルー》でしょうか。クラシックを普段聴かない人でも知っているくらいの知名度です。なお、翌年には書法に磨きをかけた《ピアノ協奏曲 ヘ調》が生み出されます。


 ところで、そんなガーシュウィンよりも前にジャズを押し出してピアノ協奏曲を書いたのが、ブログで紹介したこともあるシュルホフです。彼は第1次大戦に従軍してからダダイズムに進み、その過程でジャズを知ったのでした(ジャズ好きだったジョージ・グロスの影響らしい)。アメリカのジャズをイメージしていると「言うほどジャズか?」と思うかもしれませんが、これはこれで面白かったりします。シュルホフ以外にも、ヒンデミットもストラヴィンスキーもカゼッラも、ジャズの存在は無視できなかったようで、寄せた作品を少し作っています。クルシェネクがジャズに影響を受けて書いたオペラ《ジョニーは演奏する》は1926年に書かれましたね。


 あとは地味にアイヴズが実験的な作品を書き散らした挙げ句に病気のため創作活動を縮小しているのが1920年代にあたります。この方に限っては一人だけ未来を走っているので例外扱いで…シェーンベルクとホルストとアイヴズが同い年という話も面白いですね。微分音に調律したピアノで演奏する《3つの四分音の作品》がこの時期に相当します。またアメリカでは同時期に、カウエルが掌と腕のトーン・クラスター奏法による《富士山の白雪》、内部奏法による《エオリアン・ハープ》を続けて書いています。


 

 そんなこんなで話はプッチーニに戻りますが、彼が《トゥーランドット》を作曲した1920年代前半は、第1次大戦前にも増して新旧の音楽が入り交じった時期であるように思われます。もちろんプフィッツナーやラフマニノフ、R.シュトラウスの存在もありますし、一辺倒にロマン派終焉の時代と言い切ることはできません。それよりは、各々が自身の信じる音楽を貫いた交差点こそが1920年代だったのかもしれません。世界はこの後、第2次大戦に呑み込まれ、戦争や政治の影響を無視できなくなっていきます…が、それはまた別の話。


 プッチーニの音楽も、ひたすらメロディを押し出したロマンティックなものに聴こえながらも、実は斬新な和声付けが行われていたりします。伴奏を弾きながら、《ラ・ボエーム》や《マダマ・バタフライ》などとも異なる、この時代を生きたプッチーニや《トゥーランドット》の位置付けを考えたりするのでした。



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