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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】音楽家という手品師、あるいは詐欺師、もしくは呪術師


 音楽を聴くことで空腹が満たされることはないし、音楽を聴くことでガンが治ることもありません。音楽を聴くことで植物が育つことはないし、音楽を聴くことで雨風を凌ぐこともできません。

 このような意味において、どうしても音楽は食品や医療や家屋よりも物的価値の低いものです。いやそもそも物ですらないし、実体無いし。


 “健康で文化的な最低限度の生活” とは言われますが、音楽が担えるのは “健康” のメンタル的な部分のほんの一部と “文化的” 程度のものでして、そりゃあ衣食住やフィジカル的健康が脅かされているところで「不要不急」「自粛せよ」「支援? 甘えるな」と心無い言葉を投げ掛けられるのは仕方の無い面もあるのです。

 振り返ってみれば、音楽というものは “組織化された音の関連” であります。ざっくり言ってしまえば “並べられた音” ですよ。並べられた音が飢餓や雨風を凌ぐ力を持つわけがないのです。音楽があまりに無力であることは3.11の時点で痛感したはずです。「音楽に力は無い」と言われるのはこの面においてであります。



 ところで、僕はそんな絶望的な話を肯定するために記事を書いたわけではありません。


 先日、坂本龍一さんの発言が話題になりました。「音楽の感動は基本的に一人一人の誤解」であると。音楽に何か力があるのではなく、音楽を作る人間がその力を及ぼそうとすることは烏滸がましいと。


 よろしいですか、今から屁理屈を言いますよ。

 坂本龍一さんはここで、音楽に力があると言ってしまっているのです。「音楽の感動は基本的に一人一人の誤解」であるということは、“誤解させる力” が音楽にあるということです。


「誤解」という単語だけ受け取ると、なにやらネガティヴな印象を受けると思います。しかしむしろ、音楽を聴いて受ける「誤解」はポジティヴなものであるどころか、それこそが人間が音楽を愛してきた要因であると言ってもよいでしょう。

 ベートーヴェンの音楽に運命と勝利を見出だし、ショパンの音楽に恋の切なさを見出だし、シェーンベルクの音楽に魂の絶叫を見出だし、バルトークの音楽に歌と踊りの生命力を見出だし、メシアンの音楽に神の愛を見出だし、ケージの音楽に禅の精神を見出だしてきたのは全て、人間の想像力が生み出したポジティヴな誤解です。

 それらの誤解は人間の心を奮い立たせたり、痛めつけたり、慰めたりしてきました。それは人間が星を繋いで星座という物語を勝手に創作したり、手品に接して勝手に魔法の存在を信じたりするのと同じことです。


 

 仰木日向著『作詞少女 詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話』には、こんなセリフが出てきます。


「──音楽はな、呪いだ」

(略)

「音だけで人間の心を意のままの方向に誘導するんだぞ? 楽しい気分にもできるし、緊張感のある雰囲気にもできるし、忙しない気分にも、感動的な気分にもできる」

(略)

「──人間の、行動原理のほとんどは意識的ではなく、無意識的だ。そして音楽や美術は、聴覚や視覚といった器官を通してアタシたちの “無意識に浸透する”。正体不明の漠然とした “直感” は、そうやって作られていくし、それはつまり、アタシらの心を潜在的にマインドコントロールするっていうことに、限りなく近い」

(略)

「『音楽は呪い』だ。もう少しポジティブな言葉であえて美しくいうなら、音楽というものは “人類が誰でも使える魔法” と言って差し支えないだろう。この行為は、意識の部分ではなく無意識の部分を操作する、使いようによっちゃ極めて危険な洗脳行為ってわけだよ」



 呪い。これまた強烈な表現ですね。音楽はその「誤解させる力」によって、人間の心を操ろうとすることさえできるわけです。

(これをまんまと政治利用…プロパガンダに音楽を用いたのが歴史上の独裁者であるわけですが。というか独裁者たちはこの作用を「広告に使える」ということをよく理解していますよね。坂本龍一さんはこれを “闇の力” と呼んで嫌悪していました)


 

 音楽家とは、音楽の持つ “誤解させる力” を利用して人々にはたらきかける(そしてお金を貰う)人たちです。

 最初に「音楽に力は無い」と書きました。でも「音楽に力はある」し、そのように利用して見せることはできるのです。


 音楽家はさながら、タネも仕掛けもある見事な手品を披露して観衆に魔法の存在を信じ込ませる手品師に喩えられましょう。まあ、力の無いはずの音楽に力があるように見せかけてお金を貰うのだから、詐欺師であるという比喩も実は結構的を射ているのではないかと僕は思うのですけれどもね、他人の心に侵入することですし。

 あるいは。岡本太郎は「芸術は呪術である」と言ったわけですが、手品という詐術が本物の呪術に化ける可能性は無くもないでしょう。相手の心に侵入し、感動という “誤解” を引き起こす呪術。おどろおどろしさにむしろ惹かれる人もいたりして。


 ともかく、音楽家として一度はこの “誤解させる” という視点、もっと言えば “欺く” とか “騙す” という視点に立って音楽を考えてみるのも良いのではないかと考えた次第であります。なに、人間の心を騙せない音楽家には、音楽などという力無き代物で人間の心を揺さぶることもできますまい。


 …などと書いている僕もきっと詐欺師でありましょう。


 

『作詞少女 詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話』

著:仰木日向 / イラスト:まつだひかり




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