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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】アンサンブルはコミュニケーションである

更新日:2020年3月23日


タリス:我、汝の他に望みなし(40声のモテット)

アンサンブル ensemble [仏]

 原意は「いっしょに」「ともに」。

❶ 音楽では一般的に「重唱」「重奏」のこと。

❷ オペラではとくに、幕の最後などで歌われる二重唱、三重唱、四重唱など。

音楽之友社『新編 音楽中辞典』より


 

 アンサンブル。自分一人だけではなく、他の誰かと共に複数人で演奏することです。決してこれは特定の楽器同士に限ったものではなく、突き詰めれば「同じメロディを2人で歌う」という原始的なレベルのものでさえもアンサンブルでありましょう。

 アンサンブルは音楽によるコミュニケーションであります。共演者が “音楽によってコミュニケーションを取る” そのプロセスが演奏になります。

 お察しの通り、一方的に捲し立てるだけではコミュニケーションは成り立ちません。お互いに相手の話を聞いてそれに応えることで会話が成り立つように、お互いに相手の音楽を聴いてそれに応えることが、アンサンブルというコミュニケーションの成立のカギとなります。


 確かに、楽譜という台本は存在しています。自身の喋るべき台詞については、予め知っていなければなりません。ですが、台本を音読するだけの作業ではなくコミュニケーションを実現するためには、「共演者の音楽を聴くこと」こそが第一歩です。

「共演者の音楽を聴く」というのはそのままの意味でありますが、まあ単に「聴け」と言ってできるようであれば話のネタにはなりますまい。

 それを実現するためのヒントがあります。共演者がどんな音楽をやっているのかを予め確認しておくという方法です。共演者がどんな音楽をやるかを知っておくことによって、共演者の音楽を受け止める精神的な準備ができるのです。

「確認しておく」と書きましたが、なにも楽譜上だけで黙読してイメージを持っておけ、というわけではありません。歌の伴奏ならば自分も歌のパートを歌ってみたり、楽器のアンサンブルならば他の楽器のパートも自分の声に出して歌ってみたり、合唱でも他のパートを歌ってみたり…等々、実際に音楽として体験してみればよいのです。

 ピアニストとしては、簡単な合唱曲の伴奏ならば弾き歌いくらいしておいてもよいとさえ思うところであります。メロディが無いままコードをじゃんじゃか弾くだけの練習なんてのも音楽としては味気無いでしょうし。「ピアノに集中してるから歌のパートはよくわかってない」などと言っている場合ではないのです。


 ところで、この「共演者のパートを実際に音楽にして確認しておく」というやり方にも注意点はあります。

 あくまでその確認のために鳴らした音楽は自分の音楽であり、共演者の音楽ではないのです。この視点が抜け落ちると、共演者はこのような音楽を投げてくるはずだという思い込みが生まれ、むしろ実際の共演者の音楽を聴く余地を失ってしまいます。型に嵌まることには安心感があるようですから、そのような状態に陥る危険性は心に留めておいてもよいでしょう。目的は共演者の音楽を聴くことであるということを忘れてはいけません。共演者から投げられた音楽に対して臨機応変に音楽を投げ返していくことが求められるのです。


 アンサンブルを行う演奏者たち全員が自身を機械化し、全く同じテンポで自身のパートのみの完全遂行に専念した時にも、確かに楽譜に書かれた音のタイミングはもれなく綺麗に揃います。しかし、それは言うなれば、複数の独りぼっちが壁に向かってそれぞれ台本を朗読しているけれど、たまたまタイミングだけ噛み合って意味が通っているようなものです。そこにコミュニケーション…アンサンブルは存在しないわけです。

 そうそう。先日TVで、ベートーヴェンの《英雄》のとあるセクションにおいて、それぞれのパートがどんな音楽をやっているかということをブロムシュテットがN響相手にレクチャーしている場面を観ました。ブロムシュテットはその解説によってオーケストラにアンサンブルを促すのです。オーケストラという大きな編成でも、ですよ。

 アンサンブルの合わせは、それぞれが完全に整えてきたピースをただ単に連結するだけのものではないでしょう。そこにはコミュニケーションを成立させるために様々な探りを試みる手間があるはずです。「自分はこれでいい。変えたくない」という拒絶を表明した瞬間にアンサンブルは深化を停止します。


 音楽を受け止める。音楽を投げ返す。このやり取りこそがアンサンブルの面倒臭いところであると同時に醍醐味なのであります。

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