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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】"書いた曲を交換して演奏しあう発表会"から学べるもの


「演奏家はぜひとも作曲に挑戦してみよう! 作曲をする人たちの視点がわかるかもしれないよ!」という話を度々忘れた頃に引っ張り出してきて言っています。


 クラシックなどは専ら楽譜に表面上書いてあることをとにかく再現しようとして、"何故そのように楽譜に書かれているのか"、"どのような音楽をやってほしくてそのような記譜をしたのか" などということに意識が及ばなくなりがちであるように思います。演奏と作曲を二刀流でできるレベルにまで到達する必要はありませんから、せめて作曲する時にはどのようなことを考え、またどのように楽譜に書いて伝えるかを悩む…ということを経験してほしいのです。作品に対峙する考え方も変わってくるかもしれません。


 

 以上のことは以前から言っていましたが、もう少し突っ込んだ体験ができそうなアイデアがあったことに気付きました。それが記事タイトルにもある『書いた曲を交換して演奏しあう発表会』です。


 作曲を試みるというだけでは、作曲をする時の視点は体験できますが、作曲をした後の視点はまだ体験できていないのです。作曲をした後の視点とはつまり、自分の作品が自分ではない他の演奏者によって演奏されるのを見る視点であります。


 自分が作曲したものを自分で演奏するというのはある意味で気が楽な面があります。「この曲はこんな風に演奏してほしい」というイメージが、既にある程度は自分の中に備わっており、演奏者としての自身はそれに従えば作曲者としての自身の納得を得ることができるからです。


 しかし自分ではない他の演奏者に演奏を任せるという時には、どのように演奏してほしいかということをきちんと演奏者に伝えたくなることでしょう。基本的に僕自身が自作の演奏に関わるようにしているのは、結局のところそれを兼ねてのことであります。他の演奏者が「こうしたい!」という意志を提示することを僕は否定しませんが、殆どチェックはしているという状態です。


 ただ、これは作曲者が存命であるからこそできる行為です。コンサートのプログラムの大半を過去の作品が占めるクラシックなどでは作曲者は大概既に亡くなっている人ばかりであり、彼ら彼女らから直接助言や意向を聞くことはできません。想像力でカバーし、できるだけ良い音楽として演奏するしかないでしょう。死人に口無しではありますが、もし作曲者が蘇って聴くことになっても恥ずかしくない演奏をしようという思いだけは誰しも持っているかもしれません。



 

 記事タイトルに挙げた企画のやり方には2パターンあると思われます。即ち、①作曲者が演奏者に指示をするパターン、②作曲者が演奏者に指示をしないパターン…というものです。前者は作曲者が存命している場合に、後者は作曲者が既に亡くなっている場合に、それぞれ投影できるでしょう。


 参加する演奏者たちはそれぞれに曲を書きます。それらの曲は自分ではなく、別の参加者が演奏することになります。この時、目的に応じて上述の①か②のどちらの方法で行うかを決めるとよいでしょう。作曲者からの指示を受ける経験、そして自らが作曲者として別の演奏者に指示をする経験をしたい場合は①の方法を、演奏者に完全に任せてどうなるかを見届ける経験をしたい場合は②の方法を採ります。


 円満な企画として終えられる方法はどちらかと言えば①でしょう。演奏者は作曲者がどのような意図をもって作曲したのかという生の声を聞くことができ、作曲者は演奏者に意図を伝えた上でできた演奏を聴くことができます。その過程において「その意図はきちんと楽譜に反映されていない(楽譜の書き方が悪い)」「確かにそのニュアンスは楽譜に書けないかもしれない(記譜の限界)」などといった事象に出会すこともまた勉強になるでしょう。


 その一方で、下手をすると禍根を残しそうなのが②の方法です。作曲者は一切の意見を禁じられ、その作品が理想的で納得のいく形になるかどうかは演奏者の誠意と想像力、そして一方の作曲者の楽譜の書き方(できる限り伝えようとしなければいけなくなる)にかかってくることになります。作曲者にとって予想外の演奏が出てくることが考えられるわけですが、もちろんそれは良い方向にも悪い方向にも可能性があるのです。また、作曲者の「こうしてほしい」という声とチェックが入らないぶん、殆ど音楽とは関係の無い自己都合の改変さえ行えてしまうでしょう。クラシックの演奏の殆どはこの可能性を含んでいるのですけれども。


 ②の方法を採って起こる最悪のパターンは「こんな筈ではなかった」と作曲者が頭を抱えることでしょうか。それはチェックを入れる機会が無かったから起こったのかもしれませんし、あるいは演奏者が勝手に相当外れたことをやったからかもしれません。ただやはり、演奏者としてそれは避けたいものであります。そのために必要な考え方や行動を身に付けるのも、きっと一つの勉強になるでしょう。


 

 この企画を実行した時に、肝心の演奏発表が上手く行くかどうかはそれとしてあるでしょうが、①と②いずれの方法によっても、そこに向かう過程において、学ぶべきことや明るみになることは出てくるでしょう。その最たるものは恐らく普段の演奏への取り組み姿勢であります。きちんと音楽を考えて汲み取ろうとしているか、少なくとも「こんな筈ではなかった」と作曲者を失望させることだけは無いように誠意をもって音楽をやろうとしているか、といったことは露呈するでしょう。


 そして、この企画では自分自身もまた作曲者であり、他の演奏者が自分の作品を演奏しています。もしも自分の作品が雑に扱われ、酷い演奏によって発表されるに至ったならば、きっと身を引き裂かれるレベルの苦しみを知ることになるでしょう。ラフマニノフは《交響曲第1番》の失敗と酷評を受けて神経衰弱に陥りましたが、それは当然ではないかと考えるのが作曲家の感覚ではないかと思います。運が悪いとこのショックを浴びることになります。まあ、演奏家ともあろうものならこれを一度くらいは経験しておくと「他人の作品を絶対に雑に扱わないようにしよう」と身に沁みて思えるようになるかもしれません。


 この企画はよい勉強の機会にはなると思いますが、誰かの誠意が欠けるとショック療法になります。覚悟してお試しあれ。



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