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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】「芸術家=反権力」というイメージ

「普段は権力を批判するくせに支援してもらおうとは!」という声を見ることがあります。それを「ロックじゃない」だのとわざわざ音楽用語を使って音楽家にマウントを取ろうとする人がいることには辟易するところではありますが、それはさておき。



 どうやら世間的には芸術家というものは「反権力」のイメージと結び付いているようです。実際にはそんなことは全くなく、権力側に賛同する芸術家だっておそらく同程度いるのではないかと思うのです。歴史を参照しても、保守的なウィーンの地においてリベラルな思想を保っていたベートーヴェンのような反権力の作曲家が目立ちがちではあるものの、決してそういう人たちばかりではないことがわかるでしょう。


 芸術家は大衆に対して何かを訴えかけようとする人たちです。常に自分たちが「こうであるべきだ!」と思ったことを作品に表現して、その作品に接する人たちに訴えかけているのです。

 その「こうであるべきだ!」の内容が権力の意見と同じか異なるかというのは全く別のことです。同じ意見を持っている芸術家もいれば、異なる意見を持っている芸術家もいる。しかし、決定的に一般の人たちと異なるのは、自分が「こうであるべきだ!」と思っていることを表に出してしまう人たちであるということです。そしてそれは自分のやっている芸術という一分野に留まるものではありません。自分の人生の中で何を考えたかという意味ではどれも同じことなのです。


 権力が自分の思い通りの政治をやっていると感じる芸術家はわざわざ「こうであるべきだ!」などと主張はしません。その通りになっているのだから。しかし、権力が自分の信じるものに反していると感じた芸術家は「こうであるべきだ!」を大々的に打ち出します。これを傍から見ると「芸術家は反権力」であるという見え方になります。

 つまり一部の芸術家が反権力の姿勢を取ったところしか世間一般には見えていないというだけなのです。


 例えば(一部の)芸術家たちが「戦争反対!」という運動を繰り広げるのを見ることがたまにあるかと思います。いいですか、戦争に対する不穏な空気を感じ取るような状況でないならば、芸術家たちはわざわざ「戦争反対!」と思っていることを表に打ち出す必要は無いのです。自分の考えていることを訴えかけねばならないと思ったからこそ口に出すのです。もしも芸術家たちが「戦争反対!」と騒いでいるのを「反権力な奴らめ」と感じた時は、その権力が孕む危うさと、自分自身が何を考えているかを振り返ってみてもいいかもしれません。ある意味、芸術・芸術家が担い得る社会的役割の一つはそこにあります。


 ところで。

 音楽家は政治的主張を言葉で述べることが多いと思います。「音楽家なら音楽で主張しろよ」と思われることでしょう。しかし、音楽のもっている具体的なものと言えば、音自体のパラメータやその組み合わせ方だけでしかなく、文学や美術のようにストレートに具体的なことを、それこそ政治的主張などを述べる力は無いのです。歌だって歌詞という言葉の力を借りているわけでして、音そのものにその力は無いのです。音楽の表現力は抽象的な次元にのみ存在するのであり、ならば具体的な話については自分の口で喋ってしまった方が伝えられることも多いでしょう。

 音楽家はどうしても主張の目的に応じて表現手段も考える必要が出てくるのです。音楽家が喋るということは音楽とは言えないけれども、芸術家として考えたことを表に出しているのだと思っていただければ幸いでございます。音楽家が音楽をやることと社会について主張を述べることは、音楽家の中では別個のものではないということなのであります。



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