• Satoshi Enomoto

「演奏会」という作品

 12月に行った宮口遥名さんとのデュオリサイタルに来てくれた友人が、夜にLINEで感想を寄せてくれた。その友人はクラシックにそもそも興味が無く、ドビュッシーという作曲家の作品も一曲として知らず、単に僕が弾くからという理由だけで来てくれたのだが、話を聞いてみるとどうやら音楽の面でも満足したらしい。

 僕はこのリサイタルで「ドビュッシーの音楽に感動し影響を少しでも受けた僕たちが演奏や作曲、さらには曲を聴くことで、100年前に死んだドビュッシーは生き続ける。これはモーツァルトや他の作曲家についても同じこと。そうやって僕たちのような現代の演奏家たちはクラシックを弾いているのだ」という話をし、最後に自前の《ドビュッシー風きよしこの夜》を連弾した。友人はこの話を聞いた上で音楽を聴くことによって、クラシック音楽というものがリアルタイムさを帯びたものとして感じられたらしい。「ただ凄い演奏をしましたっていうだけじゃなくて、『その作曲家は100年前に死んでいても、後世の音楽家たちがやる音楽の中にちゃんと生きている』という榎本なりの音楽哲学がわかってちょっと感動した」とのこと。


 クラシック音楽の集客は非常に難しいものである。頻繁に言われる文句が「クラシックは敷居が高い」というもので、クラシックの演奏会に行く気が起きない理由を、“高尚で純芸術的なクラシック音楽を理解するのにはそれなりに教養が必要だから取っつきにくい”などと言い訳されるのである。そこで演奏家たちはどうにかプログラムにポピュラー作品や映画音楽、あるいはクラシックでも一般大衆に知名度の高い作品を加えて「敷居が高い」というイメージを緩和しようと試みる。しかし、僕は聴衆の言う「クラシックは敷居が高い」という文言の原因は「クラシックは理解が難しい」というクラシック音楽そのものの敷居の高さなどではなく、「お前ら演奏家がクラシックを演奏することで何をやりたいのかがわからない」ということではないかと思うのである。

 例えば自分が既に練習していて弾ける曲を片っ端から並べるとする。演奏のクオリティは保証できるだろう。だが、それらで組んだプログラムにはどのような整合性あるいはテーマがあるだろうか。常日頃から一定のテーマに基づいて練習する曲を決めているなどという人ならば大丈夫だろうが、手当たり次第にベートーヴェンとフォーレとプロコフィエフなんて並べられたらさすがに何がしたいのか不鮮明になってしまうだろう。確かにリアルタイムで練習していて弾きたい曲かもしれないが「この曲とは別の場で別の曲と一緒に弾くべきだ」とか「今回の演奏会にはそぐわないぞ」とかいう判断をしてもよいと思うのである。つまり、曲単体で表現することだけではなく、プログラム全体で表現することを考えるということである。それこそが「演奏会で何をしたいのか」ということである。

(ただ、どうしても音大の定期試験などでは限られた時間の中でとにかく演奏クオリティをアピールできる曲を選ぶことになるので、その方針で演奏会の選曲をしてしまうという面はあると思う。現に僕も学部の2年生までは先生に指示されたままのプログラムを弾き、メンデルスゾーンの《厳格なる変奏曲》とチャイコフスキーの《ドゥムカ》を並べたり、ショパンの《舟歌》とラフマニノフの《音の絵》を並べたりしたものだ。もしも「なぜその2つを並べたの?」などと聞かれた日には僕は何も答えることはできなかっただろう。要するにピアノのテクニックや音楽性を強めにアピールすることができる曲だっただけだからである。勉強のためとは言え、今となって振り返ると構成は拙かったのではないかと思う。)


 もう一つ喩え話をしよう。僕は美術展に行くのが趣味の一つだ。はっきり言って演奏会よりも足を運ぶ頻度が多い。一見、音楽とは関係無いと思われるかもしれないが、音楽作品を美術作品に、演奏会を美術展に対応させて考えることができる。一つ一つの作品が連なることによって一つの会を成しているわけだ。僕は美術展の内部事情を知っているわけではないが、きっと一つの美術展を企画する時には、テーマを決め、展示する作品のラインナップ、更にはそれらの作品をどのような順番でどのように展示するのかを丁寧に考えていることだろう。美術展の楽しみは作品一つ一つを見てまわることも勿論だが、全体がどのような流れを成しているかを感じることも含まれると思うのである。

 それを演奏会に置き換えてみよう。音楽作品の一曲一曲の魅力を引き出す努力をしない演奏家はいない。だが、演奏会全体がどのような流れを成すかということに対する配慮はどうだろうか。そこを蔑ろにしたときに何が起こるかというと、演奏会のテーマがぼやけるのである。極端に言えば「曲が伝えたいこと」は伝わっても「演奏会が伝えたいこと」がよくわからないということが起こるのである。それは脈絡の無い美術展のようなものだ。

 テーマなんか決めなくても曲(音楽)だけを純粋に楽しめばいいじゃないかという意見が出ると思う。だが「音楽だけを純粋に楽しむ」というのは、長らく音楽に親しんできた人間だけができるようになる、意外に高度な要求である。普段からクラシックが好きで聴いている人ならばそうやって楽しんでもくれるだろう。だが、それは新規の聴衆に対しては「どのように聴けばクラシック音楽を楽しむことができるか」を教えないまま勝手に聴いて楽しんでくださいと言っているようなもので、結局はそれでついて来ることができない聴衆を置き去りにする態度であると思う。聴衆に音楽を与えはするが、聴衆を音楽に導きはしないだろう。

 演奏会に一貫したテーマやコンセプトがある時、それは聴衆にとって音楽をどのように聴けばよいかという指針になるのである。そしてそれを示すためには、やはり音楽を奏でるだけでなく、プログラムノートに思いを綴ったり、言葉でもって問いかけねばならない。確かに言葉は音楽に追いつかないかもしれないが、聴き手が音楽に追いつくのを助けてくれるものである。同時に自分自身もどのような指針をもって音楽を作ればよいかということも明らかになるメリットもある。

 また、「演奏会のテーマまで決めるのは押し付けではないか」という意見もあった。僕は求められてもいないことを提示する表現という行為自体がそもそも既に押し付けみたいなものではないかと思っていて、更に言えば、自分に言いたいことが何も無かったとしても勝手に作品が喋ってしまうのだから、つまるところ「何を今更」という思いしか湧かないのであるが、押し付けに感じられてしまうかどうかはやり方の問題なのである。求められてもいないものを与えるだけならそれはどんなに高品質なものでも押し付けである。逆に、聴衆が自発的に音楽を求め、味わえるように仕向けることが「与える」から「導く」への転換点ではないだろうか。演奏会のテーマやコンセプトを明らかにすることは結局のところ、これから一連の音楽を辿るための道筋を示すことなのである。


 演奏会をやろうとする人間は今一度、何をしたくて演奏会をやるのかを考えて見てほしい。純粋にその曲の面白さを知ってほしいからだと思うならば、ではなぜそれを知ってほしいと思うのか。別に社会や人生における具体的な実益や(どこぞの議員のように)生産性を示せというわけではないし、癒しや安らぎを必ず提供しろというわけでもない。演奏会によって自らが何事かを示し、何事かを問いかけるためには、聴衆に語りかけ、聴衆を導くことを念頭に置かねばならない。楽曲が“作曲家の作品”であるならば、演奏会は“演奏家の作品”である。自分の作品=演奏会を説得力を持って作り上げ、自らの手でガイドを務めるのだ。これこそが「聴衆を置き去りにしない」ことであると思う。脈絡無く演奏したい曲を並べただけの演奏会は、きっと音楽家と音楽愛好家だけのものになってしまうだろう。全ての人を音楽へ巻き込む方法は、一般大衆の好みに媚びることでもひたすらに与えることでもなく、音楽家自身が示すことを考えて提示し、人々を音楽へと導くことに他ならないのである。

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