• Satoshi Enomoto

【雑記】"レッスンします"とは言うけれど。

 ここ数日間、当ウェブサイトを改造していました。見づらかった色使いやフォントを変えるという細かいことに始まり、トップページに動画や最新記事を載せたり、受けている依頼についての詳細を書くための個別ページを作ったりという大きな更新もしました。


 アナログでもデジタルでも、何かを作ることは基本的に好きでいくらでもやっていられる性分なのですが、縫い物をしたり絵を描いたりすることにあまり疲労は感じない一方でPC作業は非常に疲れます。ウェブサイトのみならずフライヤーや楽譜をPCで作ることも実はこっちの "疲れる" 側の作業だったりしますが、それはさておき。


 今回のウェブサイト改造を試みた一番の理由は、引き受けている依頼の詳細ページを分けることでした。演奏・レッスン・創作と、「できることは何でもやったれ」くらいのつもりで色々引き受けてしまっているので、一つのページに全部書いてしまうと逆にゴチャゴチャするだろうと感じたのです。ページ数が多いことは閲覧してもらうには恐らく不利なのですが、それぞれの仕事の方針なんかも書けた方がいいかなとも思いました。以後も少しずつ更新します。



 ところで、僕は一応レッスン業をしています。ピアノを教えることもありますが、どちらかと言えばオンラインでソルフェージュや音楽理論を教えることの方が多いです。というのも、実家住まいでしかも高齢の祖父母を抱えているので、コロナ禍が続く限りは自宅での対面レッスンが難しいのです。やはりピアノとなるとオンラインよりも対面の方が細かなところまでわかって良いでしょうし、一方で音楽理論などは画面共有で資料やレジュメを提示できる分むしろオンラインの方が良いのかもしれません。


 といった具合で細々とレッスンをしていて、ウェブページでも「指導します」みたいな言い方を便宜上しているわけですが、ここからちょっとした個人的な感覚の話です。


 これを言うのもどうかとは思うのですけれど、僕自身としては誰かに音楽を "教えている" という感覚はあまりありません。いや、もちろんその責任を負っているつもりはあるのです。ただ、相手の上に立っているというつもりが無いのです。細かい話、「榎本 "先生" 」と呼ばれることさえ実はとても苦手であります。ではどのような感覚なのかと言えば、"自分の研究の成果をシェアしたり、そのやり方を見せたり、あるいは一緒に研究している" というような具合です。


 音楽というもの自体がなかなかファジーなものでありまして、できる限り先人たちの遺した研究資料にあたっては自分で実践して上手くいくことがあっても、それが本当にベストの解釈や方法であるかは常に疑問であるわけです。ベターであろうと判断できるものを選んで更新し続けているだけなので、実は「自分は誰が何と言おうとこの流儀でやろう」ということすら持っていなかったりします。


 レッスンというと、どうも "伝授" のイメージが強いかもしれません。そのような面があることも否定はできないのですが、横から受け取ったものをそのまま横に渡せるようなシンプルなものではないのです。それよりは、自分自身が勉強して体感・経験したことを共有していくというスタンスの方が、リアリティをもって相手に伝わるのかなと考えています。本当にベートーヴェンがそう考えて曲を書いたかどうかはわからないけれど、自分が研究してみた結果、このように捉えた方がより強い説得力をもつのではないか、といったような提示をするわけですね。生徒もそれを鵜呑みにするのではなく判断の一材料にすればよいでしょう。


 そうなると、指導する側の人間は自分の中の真実を確定してしまうのではなく、あくまでも研究を続けてそれを更新し続けねばならないということが言えると思います。業界には研究に熱心な音楽家を「音楽家じゃなくて音楽研究家」と揶揄する声も無いわけではないのですが、極論を言えば音楽家は常に研究家であらねばならないと思うこともあります。心強くも、歴史上の偉大な作曲家や演奏家たちは殆どが研究熱心な人々でありました。


 音楽の指導者は決して音楽の全てを理解した神ではありません。むしろ教祖であろうとすることは危ういことでしょう。あたかも完全に理解しているように振る舞ってそれを与えようとするのではなく、生徒と同じ目線に立って共に音楽を研究しようとする行為を "レッスン" と呼ぶくらいで丁度良いくらいなのではないか…などと考えた次第であります。その姿から学べることもあるでしょうから。

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