• Satoshi Enomoto

【雑記】指導者の責務:学び続けること

 

音大を出ていなくても素晴らしい音楽家がいる。翻って、音大卒なのにどうしようもない音楽家もいる ── いずれも事実であります。


 音大卒/非音大卒というのはあくまでも学歴という肩書きの話でありまして、音楽にまつわる能力的ステータスは学校の名前よりも、どんな音楽をどのくらい学んできたかという経験の方に基づきます。音楽史上でも、音楽学校を出ていないにも関わらず素晴らしい音楽を残した音楽家は沢山存在しますが、これは音楽学校卒かどうかという肩書きの話ではなく、どれだけ音楽を勉強したかであるということです。音楽の専門的研究を専門の教育機関で行ったか、教育機関の外で行ったかの違いなのです。これが独学だったとしても、研究を行わなかった音楽家だけはいないでしょう。色々な形はあれど、誰しも必ず勉強・研究して自らの音楽を形成してゆくのです。



 さて、それは音楽家本人が音楽活動をやっていく際のお話です。ところで音楽家には、教育という仕事もあるわけです。むしろ現代のクラシック音楽界に関しては、本当に演奏や作曲一本だけで食べていけるのはほんの一握りのスターだけでありまして、大半の音楽家たちが様々な形ではあれど“音楽指導”“音楽教育”に関わっていることでしょう。


 この“音楽を教える”という仕事は、かなり大きな責任を伴います。なにせ生徒の音楽観、音楽人生に少なからず影響を与えるものですから、その過程でうっかり変なものを与えてとんでもない方向に歪めてしまうことがないように気を付けねばならないのです。これは「指導者の音楽観が影響を与える」という話とは程度が違うのです。


 この危険に無自覚な“自称指導者”が何を仕出かすかというと、自分個人のやり方や自分が習ったやり方をそのまま生徒に押し付けようとする ── つまり、自分ができる範囲内だけの認識でものを教えようとするのです。なにせ指導者でも一人の人間でありまして、芸術には主観で触れることになりますから、どうしても「自分が触れているもの」「自分が経験したもの」だけを優先的に信じてしまうものです。音楽にまつわる研究を怠る程に、このよろしくない意味での主観経験の比重が肥大化していくのです。


 自身が学校の教科書から読み取った「Andanteは『ゆっくり歩く速さで』」という説明だけを盲信し、そのように生徒に覚えさせるのは簡単なことです。しかしAndanteには速い場合もあるのでありまして、それを知らなければ、どんなAndanteでもとにかく遅いテンポで弾くことを良しとしてしまいます。やや速めのテンポを持つAndanteで弾いた生徒を間違いと断じ、叱って矯正するのでしょうか。


 自身がずっと固定ドで楽譜を読んできたからと生徒にも固定ドでソルフェージュをやらせるのは楽なことです。しかし派生音の区別もせずに同じシラブルで歌わせていれば、調号の多い調ほど音が取れないという状態に陥る生徒が出てくるでしょう。僕の周りにも「調号の多い曲を歌うのはちょっと…」という人がいます。歌において調号の数は難易度にほぼ関係無いと思うのですけれども。そういえば、固定ドとドイツ音名を混ぜて「ミ、ギス、シ」などと教えるトンデモ例を聞いたこともありますね。そこまで来たらもう最初から「E, Gis, H」でよいでしょうに。


 ショパンの《ピアノソナタ第2番》の第1楽章の提示部リピートは長らく5小節目に戻ると考えられてきました。しかし筆写譜を確認してみると、裏の音符が写り込んでリピート記号のように見えているだけで、実際にはただの複縦線のようです。第1カッコの和音がDes-DurのⅤ7の和音であることからも、5小節目のBよりも1小節目のDesに戻った方が和声的に繋がることが感じられると思います。このような説が浮上してなお、「今まで自分は5小節目にリピートしてきたのだから冒頭へのリピートは認めない」と主張し、冒頭にリピートするようにした演奏家たちを非難するのでしょうか。コンクールで冒頭にリピートした演奏者を「ミスした」と減点するのでしょうか。楽譜にはリピートがそう書いてあるのだから検討などせずに従うべきなのでしょうか。





 音楽の研究を続けるということは取り組んでいく音楽に対する視野や可能性を広げることであります。音大(音楽学校)に行くのはその環境を得るための選択肢の一つなのです。必ずしも音楽学校に行かなくても、一般大学でそのような研究をすることは不可能ではありませんし、または学校に拘らずとも個人的に弟子入りすることもできるでしょう。音大こそマスト、という程ではないわけです。音大出身者ではない優秀な音楽家も多いことは先に述べた通りです。


 しかし、この転倒が起きている面も否定できないのです。音大を出ていない人でも音楽指導者になれるのは事実でしょう、ただし音楽研究や指導法研究を進められない人が音楽指導者になるのは、教わる側にとってリスキーであります。もちろんこれは音大出身者だろうが同じことです。それにも関わらず、「音大を出ていなくても指導者になれる」という面だけが独り歩きしてしまって、遂には“自分のできる範囲内の認識だけで”主観的すぎる指導を始めるのであります。そういえば以前「5年も合唱をやれば合唱指導くらいできるようになる」などという暴言を放った方もいらっしゃいましたね。


 結局どうしてほしいかと言えば、頼むから突っ込んだ勉強をしてくれということなのです。それが音楽教育、音楽指導に携わる者なら尚更です。


 数年前の高校非常勤講師を始めた頃の僕自身をぶん殴らねばならない話でもありますが、音楽家としての知識教養、演奏や作曲のスキルと、指導のスキルとは大きく別のステータスなのです。コンクールに優勝しまくるピアニストがピアノを教えるのまで上手いとは限りませんし、ヒット曲を飛ばすアーティストに作曲の教師が務まるとも限らないわけです。どのように指導したら生徒がより豊かに音楽を吸収できるかという観点まで研究しなければならないのですから、実は「音楽を教える」という生業は自分自身が音楽をやることよりも険しいものであるかもしれません。


 現実には、学習内容に予めゴールが設定されていることが多く、その小ゴールが達成できれば指導者と認められてしまうのが実態であると言ってもよいかもしれません。「Andanteは『ゆっくり歩く速さで』」と教えることがゴールとされるならば、Andanteに速めのものがあると知っていても知らなくても、どちらも指導者として認めてもらえてしまうわけです。しかしその先の注釈があるかどうか、音楽の可能性・多様性を教えてもらえるかどうかの明暗は、どちらの指導者につくかによって分かれることになりましょう。



 音楽研究を続け、音楽の様々な観点について深いところまでを知ろうとすることは、指導者としての生徒たちに対する責務であります。手元の貯金だけで長く商売をしようというのは不誠実であるということです。何度でも言いますが、音大卒/非音大卒に関わらずです。浅い蘊蓄や経験が備わっているだけの人間が手を出していい仕事ではなく、やるならその浅いのを深める努力をせねばならんということなのです。


 僕はピアノの他にも歌ったり曲を書いたりもしますが、ソルフェージュや音楽理論を指導したとしても、声楽や作曲の技術を指導するつもりはありません。なぜならそれらを指導する方法を知らないからです。無責任と不誠実を同時に踏み抜くほど音楽家として落ちぶれてはおりませんし、餅は桶屋ではなく餅屋が頼まれるべきです。



 …というのが現在の僕の主張であるわけですが、とりあえず先にツイートで言及したところ、ほぼ賛成をいただけた反面でブロックも飛んできましたね…


 音楽を教える個人の後ろめたさやコンプレックスを刺激するような話題ではありますし、もしかすると僕も自分の友人や知り合いを全方位射撃に巻き込んだ可能性があります。ただ、やはり教育や指導に携わるということはそれほど重大な責任を負っているものであるという自覚はあって然るべきでしょう。過去の僕自身も殴ったつもりですので、そのあたりはご容赦くだされば幸いです。

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