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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】レッスン観を整理した話:未来の仲間を増やすこと

更新日:2021年8月10日


 昨日の時点で神奈川県内のCovid-19の1日の新規感染者数は1,000人を超えました。ようやく最近伴奏の仕事が少しずつ軌道に乗り始めたと思っていたところなのですが、またオンラインレッスン中心に戻るような事態も考えねばと感じます。


 

 さて、レッスンと聞きますと、門外不出の知識や技術を伝授する場であるようにイメージされる方は意外に少なくもないのではないかと思います。確かに大抵は閉じた空間内で行われるものですし、その中で指導者側が絶対的地位を獲得する構図は決して起こり得ないことではないでしょう。


 そしてその中において、生徒たちを自身の支配下にキープするように仕向ける指導者もまた存在するものです。敷いたルールややり方にトップダウンで従わせるわけですね。「この音楽はこのように解釈演奏せねばならない」などということを刷り込んでいくのですが、これが主体性を削いでいくのであります。このことを知り合いのピアニストが「指導ではなく調教」と表現していましたが、的確でしょう。


 もちろん、厳密に教えねばならない事柄ももちろんあります。音楽の中でもごく普遍的な観点のみは必ず気付かせる必要がありまして、その手段がある程度限られているために、「人それぞれどうだっていい」という考えが危ういということは両立します。意外にもその「人それぞれどうだっていい」の範囲の判断を誤ることが、後の『調教』に繋がる危険性を持っているわけです。


 

 究極的には、音楽のレッスンは「自分の力で音楽に取り組んでいけるようになるためのもの」であると考えます。従属を強いることとは全く逆のものなのです。つまりは、レッスンを受けた人々が新たな力を獲得するためのものであるわけです。


 このことは「魚を与えるのではなく、釣りを教える」ことに喩えられます。魚を与えられ続けたところで、自力で魚を捕まえられるようになることはあまり期待できないと思います。釣りの方法を学んだ方が、時間はかかるかもしれませんが魚を自力で得られるようになるでしょう。


 この比喩に倣って言えば、ただただひたすらに自身の考えを強制したり、コピーを強いたりするというレッスンは「魚を与える」ことをしているだけでありまして、傍から見れば生徒当人が魚を釣ったように映りますが、実際には釣りの方法はおろか、その魚が何なのかさえもわからない状態であるかもしれません。


 してみると、指導者自身が予め完成させた音楽や知識や技術を商品として売り捌く形のレッスンは、受講する本人のためにもならないように思います。むしろ、指導者は自身が音楽に向き合い、知識や技術を駆使してそれを徐々に作っていく過程を目の前で見せるということが大切なのではないかと思います。"釣りの方法" を学び取ることができたならば、それは本当に生徒の力になるのでしょう。


 

 そのような考えを持っている手前、僕がレッスンをしている生徒さんたちには自ら音楽に取り組んでいく力を獲得してほしいと思っていますし、最終的には僕のレッスンが不要になることが一番の理想形だと信じております。


 まあしかし、それが実現してしまうと当然その分の収入を指導者は失うことになります。そうならないために、指導者という立場にある限りは、むしろより一層音楽の深度を進めねばならないのでしょう。力を得ていく生徒たちよりも常に深いところに居続けねばならないわけです。


 それでも「青は藍より出でて藍より青し」という言葉があるように、生徒が指導者を追い抜くということは、特に音楽においては決して珍しいことでもないでしょう。そして、それは喜ばしいことであると思います。音楽家として対等に並び立つことを意味するからです。演奏で快く遠慮無く共演できるかもしれませんし、むしろ自分にとって未知の領域を開示してくれる可能性だってあります。


 言葉に出してみると、段々と僕自身が考えているレッスン観が自分でもなんとなくわかってきました。


 僕が提供するレッスンは、生徒を育成しようという立派なものではないかもしれません。それよりは、未来の同志に僕自身の音楽にまつわる見識を共有しているという感覚が近いと感じます。生徒を育てたいのではなく、仲間を増やしたいということです。そして恐らくそれは、演奏活動をする目的とも地続きで繋がっていると思います。


 

 さて、7月も終わりが近付きました。8月1日に、オンラインレッスンに関連する情報公開があります。僕の中では『テンペスト』と同じレベルで大掛かりなプロジェクトですので、どうぞお楽しみに。

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