• Satoshi Enomoto

【雑記】「謝ったら負け」社会



 誰にでも誤りはあるものでして、それ自体は責められることではないと思います。必ずしも当人のミスや怠惰に起因する誤りというわけではなく、不測の展開や回避不能の事故があり得ないことはありませんし、どんなに注意をしていても見落としてしまう事項があったりするものです。そのような時には誤りを認めて軌道修正し、できるだけ良い方向に持っていくようにすることを考えねばならないでしょう。


 この誤りを認めるという行為は実のところ、かなりの勇気を要することです。その要因は、①今までやったことを否定しなければならないという点、②誤ったことに対する非難を受け止める覚悟をしなければならないという点、の2つがありましょう。


 ①について。自分の信じたものを放棄せねばならないということは自己否定の苦痛を伴います。これで間違いないと思ってやってきたことを今になって「やっぱり良くなかった」と認めることは自分自身にとって非常に辛いことでしょう。

 ②について。誰しもが同じ主張をするとは限らないもので、自身とは反対の意見を主張する人たちは殆どの場合において存在しており、その拮抗の中で自分の意見を貫いている状態がほぼ常でありましょう。そんなところで「自分が間違っていました」とも言おうものなら「ほら、やっぱりお前が間違っていたじゃないか!」と槍玉に上げられることを免れないわけです。しかもこの上に、もし自分自身が影響力や権力を駆使して世に意見を通していた場合、「間違っていました」と言おうものなら酷い報復がもたらされるであろうという恐怖に脅えるのも無理はありません。


 誤りを謝るという行為に、人間は自らの身の危険を感じるのでしょう。一つは自分自身による自己否定、もう一つは反対勢力からの攻撃。

 これらを回避・防御するために選ぶのが「絶対に謝らない」という方法です。自身が誤っていて相手が正しかったということを認める羽目にならないためには、そもそも謝らない上に誤りも認めなければいいのです。「謝ったら負け」などという揶揄がありますが、本当に現実的な意味でも謝ったら負けるからこそ謝らないわけです。


 この考え方は現代において余計に加速醸成されてしまったように思います。議論なんかまともに成り立たないはずのSNSなどで(しかも匿名というバリアに守られている安心感から余計に過激に)意見を衝突させ、しかも議論のマナーもわからないままに稚拙な論破論破を喚き散らしては「謝ったら負け」が体現されてきてしまいました。議論から脱線した人格攻撃までも起こり始めるのが「こんな酷い人格の人間が言うことなどまともなわけがない!」という情に訴える手段を選んだということだと考えても、どんな手を使ってでも自分が謝ることで負けるわけにはいかないという姿勢が見えてきます。


 議論や批判というものは、より良いアイデアを導き出すための行いです。一つのアイデアの中には利点も欠点もあるでしょうから、その欠点を補う方法を考えたり、またはその利点だけを取れる方法を考えたり、あるいは「それはやめた方がいいんじゃない…?」というアイデアが出てしまったら止めておいたりするということが議論の機能でしょう。


 しかしどうしたものか、議論というものは社会的にも勝敗を決めるもののように成り下がってしまった感覚が否定できません。「そのアイデアは良くないんじゃないの?」という指摘がなぜか “攻撃” と捉えられ、「そうかもしれないな」などと謝って “負ける” わけにはいかないからと、無理を通してでも「いや! このアイデアこそが正しいのだ!」と言い張ろうとするという、機能停止に近いことが起きていると思います。


 この傾向は発信力や権力を持っている人について特に顕著でありまして、ある意味その地位を築いてしまったからこそ「自分が言ったことが間違っていました」と言えない状況に追い込まれてしまっているとすれば、そのような教祖的立ち位置もあんまり幸せなものではないなと思ったりします。

 絶対に負けてはいけない ⇒ 謝ってはいけない ⇒ 自分が一度言ったことを取り消して転換することができない(途中で自身が誤りに気付いたとしても)、という流れは、行き先が天国か地獄かはわかりませんが、いずれにせよ直進しかできない線路である事実に変わりはないのです。ここには軌道修正が利かないという致命的な欠点があります。


 物事にはそれを取り巻く状況の変化というものも付きまといます。「以前の状況下ではこれは正しかったけれど、今の状況下ではこれは正しくなくなった」とか、「当初それは有効ではなさそうに思えたが、今となっては確実に有効だ」などということがあり得るわけです。洗濯物は晴れている日に干せば乾くのであって、わざわざ雨の日を選んで干すなんてのはただの愚行であるわけです。


 しかしそのような状況の変化を経てもなお、最初に主張した意見を「反対勢力の意見の通りになるから」という理由で、いつまでも転換できない人は予想以上に存在するのです。それが「さっきまでの自分の意見は間違っていました。あなたたちの方が正しかったです」と “負け” を認めることになるからです。


 この現象を皆さんは既に目撃したはずです。野党が早い段階から一律現金給付を主張していたのに、与党はいつまでも踏み切りませんでした。それは現実的な内部事情もあったでしょうが、野党のアイデアを採用するわけにはいかないというプライドもあったように思われるのです。いざ与党が現金給付を決定すると、「与党が当初から提唱していた一律現金給付」と与党は主張を始めました。「野党のアイデアが結局正しかった」と言えば、与党自身が間違っていたと認めることになるからです。結果的に与野党共に一律現金給付という方向を向きましたし、恐らく与党としても現金給付に舵を切るべきだと考えた議員も多かったかもしれませんが、そこに不要なプライドは働かなかったかと一点心に留まるものがありました。一方で、この決定が遅れたことを首相が珍しく “謝った” ことは印象的でしたが。


 「医療崩壊を招くから無闇矢鱈と検査を行ってはならない」と当初は言われていましたが、海外からも疑念の目を向けられ、また政府も検査数の拡充を打ち出し、方針は変わってきているように一般市民には見えているところであります。むしろ検査を絞ったことによって感染者を見逃してしまったという反省を踏まえて方針を切り替えられたのであれば、そちらの方が状況の変化に対応できているということでしょう。


 以前のアイデアが「間違っていた」と認める勇気によって、新しいアイデアに踏み出すことが可能になるのです。

 謝ること、誤りを認めることには勇気が必要です。

 謝らなければ勝負には負けないし、自分を否定しなくてもいいし、自分を守ることができる。そういった保身姿勢を擲ってでも、誤りを認めて謝り、新たなアイデアを採り入れてより良く生きられるように行動することは、むしろ気高いことであるようにも思います。


 「謝ったら負け」社会は、くだらないプライド同士の勝敗にこだわる現代人の心が生み出したものなのかもしれません。

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